見出し画像

偽りの大地:Tierra de falso

 夕暮れ時のサーバルームは空調の風切り音がうるさいばかりで、妙に人の気配がなかった。ところが、ペットロスの女に言われるがまま架列(がれつ)の間をとぼとぼ歩いていると、ラックの彼方には作業者の姿がちらちら見える。
「ここで仕事する人もわりといるんだね」
 ちょっと大げさなほどすばやく振り向いたペットロスの女は、キツめに『黙って』と口に手をやる仕草を見せ、また静かに歩き始めた。やがて目的の架列を見つけると、側面の制御盤でラックの閉鎖を解除し、メッシュ扉を開く。放熱ファンの音がわっと高まり、もやもやした熱風がほほをかすめた。
「ありがとう。モニタとキーボードはそこにおいて、ネットワーク機器と交換用のハードディスクはそっち。これから小一時間ばかり作業するから、退屈するようなら……いや、あなた好奇心が旺盛すぎるから……やっぱ共用フロアの休憩室で待っててくんない? 自販機とイートインスペースもあったでしょ?」
 うなずく俺に、建物内で余計なことはなにもするなと、もし二時間しても来なかったらフロントからレンタルPHSを呼び出すよう念を押すと、ペットロスの女はサーバ機にモニタやキーボード、マウスを手際よく接続し始める。
 どう考えてもすぐに立ち去ったほうが良さそうなので、挨拶もそこそこに共用フロアへ向かう。同じような外見のラックが並ぶ架列の迷宮をフラフラとさまよい、前室の生体認証が通らなくてヒヤヒヤした挙げ句、気がつけば入ったところとは全く別のゲートに立っていた。それでも館内図があったので共用フロアはすぐにわかったが、こんどはエレベータのセキュリティ解除に手間取り、ようやくたどり着いた休憩室には隣接する食堂から出汁の香りが流れ込んでいて、むやみに食欲を刺激されてしまう。
 ペットロスの女と夕食をともにするつもりだったが、この際だからなにか軽く食べようかと食券販売機の前に立つ。
「デポジットかよ」
 流石に入金してまで食券を買う気はなかったし、そもそも付近に入金端末は見当たらない。
 さみしい気持ちと空きっ腹を抱えて休憩室へ舞い戻り、今度は自販機をチェックする。やれやれ、こっちは交通系ICカードが使えた。場所柄かスープやしることいった「軽食、甘味系」がやけに充実していて、濃厚オニオングラタンスープとひよこ豆入りカレースープ、そしてゴロゴロ野菜のミネストローネが繰り広げる脳内コンペは熾烈を極めた。
 やがて、俺は温かいカレースープの購入を選択し、交通系ICカードをセンサへかざす。決め手となったのはひよこ豆、厳密に言うと缶のラベルでターバンとチョッキ姿の猿がお手玉していたひよこ豆のイラスト。図案化された民族衣装のお猿さんと、ほとんどひよこのような豆の絵柄が可愛らしく、うだうだと味や量を考えていても馬鹿らしいよと言われたような、そんな気にさせられる。
 受け取り口へ転がり落ちた缶は覚悟していたよりもはるかに熱く、なにかで包まないとやけどしそうだ。ポケットのタオルハンカチでくるむようにしつつ、ボトル缶の首をつかんで引っ張り出す。
 やけに熱いけど、もしかして不人気なのでは?
 そんな不安がちらと脳裏をよぎったものの、休憩室のそっけないテーブルにしっかりと缶を立て、なんとか素手でも触れるくらいになったボトル缶のキャップをひねり開ける。すると、嗅ぎなれたカレーの臭いが食欲を楽しげにもり立て、そのまま唇や舌をやけどしないよう、落ち着いてそっと口に含むと……。
 ちょっと、薄くないか?
 あぁ、やっちまった。最初によく振っておかねばならなかったか。
 気を取り直してキャップを戻し、ハンカチでくるむとこぼさないよう慎重、かつ大胆に缶を振る。あきらかに内部でなにかがゴロゴロ動く感触を得ると、わけのわからない達成感のような満足感のような、そんな気持ちの高ぶりを覚えた。
 さてさて、仕切り直してもうひと口。
 缶はあれほど熱かったのに、舌ではややぬるく感じられてしまうのは、蓋を締めて振りなおしたからか、あるいは俺が熱いと思い込みすぎていたためか、いずれにせよ思いの外すんなりと飲めた。まぁ、悪くはないかもしれまい。ただ、味の方はトマト風味のきつい缶入りカレーとしか言いようのない味で、微妙な粉っぽさの割に粘りつくような油が舌をすっかりおおいつくしてしまう。救いはひよこ豆で、小粒ながらしっかりとした食感のアクセントがなかったら、缶入業務用カレーのトマトジュース割りを飲んでいるようなものだったろう。
 お世辞にも美味とは言えない「飲み物」だったが、それでも口にはなにかの心地よさが残る。それはカレーという食べ物に備わる美点、あるいはそれを食べ続けた記憶によるものか、それとも工業的に計算された品質と原価の均衡点がこれなのか、ともあれ興味深く味わい、そしてすっかり飲み干すと、空腹感はかなり和らいでいた。
 ペットロスの女に指定された時間まではまだかなりあったが、携帯もノート機も持ち込み申請していなかったので、いきなり手持ち無沙汰になってしまう。いちおう、休憩室には新聞や業界紙、通信や情報関連の技術雑誌も置かれていたが、まだ紙媒体も生き延びていたんだという感想しかない。おまけに、新聞はともかく雑誌の方はデータディスクやメモリ、あるいはマイクロPC用基盤などの付録で電書と差別化を図っていたため、それらが切り取られたり破れ目が露出し、なんとも痛ましい姿をさらけだしていた。
 結局、卓上の新聞や雑誌は手に取る気にもなれず、かといって他に読むものは系列データセンタのパンフレットしかなさそうだ。裏表紙の「国際的な認証基準を満たす、高度なセキュリティ」とか、やけにポップな「あんしん、あんぜん、つながるつうしん」とか、なんだかマンションポエムめいたキャッチにはそこはかとないおかしみを感じたものの、もちろん手にとって読むほどではない。
 それにしても、ペットロスの女につれられてデータセンタへ入館する日が来るとは、少し前までは想像もできなかった。いや、もともと彼女はネットワークセキュリティや通信技術が専門だったし、だから俺も仕事を頼んでいたわけだが。まさかカンファレンスで公演するようなAI技術者と組んで起業し、データセンタの保守を任されるってのは、ほんとうに思いもよらない展開だ。そして、ペットロスの女へ仕事を依頼していた関係で俺もそこはかとなく加わることとなり、いまここでこうして空になったカレー缶のひよこみたいな豆をながめている。
 起業した彼女が、コードも書けずハードウェアの知識もない俺にも声をかけたのは、女から指図されても嫌な顔をしない雑用係が必要と言ってたけど、ふたをあけてみると『女だけだとなめられちゃうから、おっさんのガワが必要』だったとか、そんな打ち明け話もあったっけ。その時、ペットロスの女はほんとに悔しそうだったけど、俺はなにも言えずにただうなずいているのが精一杯だった。
 それは、代表のAI技術者を騙った『人工知能投資塾』をペットロスの女と偵察した時のことで、案の定というか恐れていたとおりというか、要は投資支援AI利用を謳ったワークショップ形式の詐欺営業だった。だが、詐欺そのものよりも驚いたのは、開始直後から微妙なハイテンションで「この後、懇親会に先生も駆けつけてくださいます!」などと煽り立てるベタな演出、そしてそんな駄法螺すら飲み込ませる話術に、予想のはるか斜め下へ突き進む講座内容である。
 そりゃぁこっちにはAI技術者が駆けつけるはずもないこと、おおかた『急用で来られなくなる』であろうとわかりきっている。だが、そんなことを微塵も感じさせない落ち着いて実直そうな語り口や人好きのするほほえみ、そしてなめらかだが軽薄ではない話のテンポなど、詐欺師とわかっていてもなお信用してしまいそうなコミュニケーションスキルを目の当たりにすると、自分でさえ事情を知らなければとうていハッタリとは見抜けないであろうとさえ思う。とはいえ、早々に名前を騙ってくれたのは嬉しいサプライズで、バッチリ詐称してくれたのだから、あとは粛々と法的手続きを進めるだけだ。
 もちろん、自信たっぷりにコネをひけらかすのは重要で、詐欺の基本かもしれない。そのために、詐欺師もあえて当人の名を出すという危険を冒したのだろうが、それにしてもあからさますぎないかと思っていたら、その先はそんなもんじゃなかった。
 なにしろ、いきなり『これからは仮想通貨の時代』なんてパワポが表示されたかと思うと、続いて『実はアメリカもEUも財政破綻している』ときたもんだ。挙げ句『デフォルト=債務超過』なんて、根本的に間違った解説までくっつけている。この段階で俺はすっかり帰りたくなっていたが、ペットロスの女はまだ頑張るつもりのようだ。それよりも呆れたのは、そんな駄法螺とよぶのもおこがましい世迷い言を、会場の人々は熱心に聞き入っているようにみえるばかりか、メモを取っている人も少なくはなかった。
 きっと、たぶん、他の人達も俺と同じなんだ。
 詐欺の証拠を集めているんだ。
 そんなことを自分へ言い聞かせながら、いつのまにか金に連動する仮想通貨などというものへシフトしていた話の内容を追いかける。どうやら金担保型のステーブルコイン、つまり金本位制の仮想通貨をアピールしているようだが、よりによってロシアの仮想通貨構想を元にしたフェイクをぶちかましているらしい。まぁいいさ、詐欺の元ネタがなんであれ、そんなもんにツッコミ入れるほど馬鹿げたことはない。そっと、静かにその場を離れるのみだ。
 流石にそろそろ退散させていただこうかと荷物をまとめにかかったところ、不意に周囲の人々が手を上げはじめたかと思うと、指名されてなさそうなペットロスの女が席を立ち「金連動性ですから、仮想通貨そのものの取引よりも金価格の変動が大きく影響します。ですから金の先物取引で……」なんて詐欺師へ答え始めたもんだから、慌ててそでを引っ張り座らせた。ただ、ちらとペットロスの女が俺に向けた眼差しの鋭さ、冷たさは、彼女の筋肉よりもはるかに強く、座らせようとする腕の力に抗している。とはいえ、本来の目的を思い出したのか、駄々をこねるようなことはなかった。
 また、詐欺師もこういう参加者にはすっかり慣れたもののようで、顔色ひとつ変えることなく「最初からとても良い質問をいただきました。今回ご紹介させていただく仮想通貨は、まさにこの金相場との……」と、ペットロスの女が答えたというか、問いただそうとした内容を引き取り、自分の話を膨らませていった。
 結局、離脱の機会を逸してしまい、休憩時間まで詐欺師の駄法螺を聞かされたのだが、ペットロスの女に続いた質疑応答がこれまたひどくて……いや、そんなことを思い出している場合ではないか。ただ、休憩のどさくさに紛れて帰ろうとした時、出口へ向かう俺たちを目ざとく見つけた詐欺師が「おかえりですか?」と『俺の顔を見て』声をかけた。
 ペットロスの女があんなところで悪目立ちしなければと、そんなことをちらと思わないわけではなかったが、それにしても隣の彼女を無視して『俺』へ話しかけてきたのは、もしかして気がついていないのではないかなどと、同時にそんな気持ちも芽生えてくる。ともあれ、どうせならノーテンキに応えたほうが良かろうと、あざとい笑顔で「えぇ、そうなんですよぉ。残念ですが」なんて軽く流しつつ振り返って再び出口へ向かうと、背中越しに「いやいや、これからがいいところですから、もう少しいかがです? それに、奥様もたいへんによく勉強されていて、驚きましたよ。ご主人が教えられたのですか?」なんて、ちょっと早口に食い下がってきやがる。
 帰り際にみつけられただけでもイラッときたのに、また逃さじと追いかけ、おまけになにが『ご主人が教えられたのですか?』だ。つくづく商売熱心、いやずうずうしいクソ野郎だ。
 息を吐くようにペットロスの女を見下すところにもうんざりしたし、あやうく『結局AIのお話はなかったですね』などと捨て台詞を口走りそうになってしまう。だが、こんなところで挑発に乗ったら最後、なにがしかの金を出すまで引っ張られちまうのもわかりきっていた。
 韓信の股くぐりはちょっと大げさか?
 とはいえ、煮えたぎる熱く重い苛立ちを無理やり飲み込み、できるだけ困った風を装いながら、伏し目がちに「自分たち、そういう関係じゃないんで」とだけ言い捨て、再び出口を目指す。
「それはそれは本当に申し訳ありません」
 背中越しに聞こえた詐欺師の声には、致命的な錯誤を自覚した悔しさがにじむ。
 とはいえ、俺とペットロスの女が妻と夫ではないなら、それはどのような関係か?
 詐欺師が別の偽りへ思い至る前に、俺たちはそそくさと会場から立ち去った。

「私だけで行くつもりだったんだけど、社長が『女ひとりだとなめられちゃうの、やっぱり男は必要よ』なんてあなたを押し付けたの……でも、悔しいけど言うとおりだった」

 先をゆくペットロスの女がそんな弱音を漏らした時、なぜか声に涙がまじっているような、そんな気にさせられて、俺はただ聞いているだけだったっけ。

 もちろん、それから詐欺師とはずいぶんゴタゴタしたが、俺にとってはトラブルそのものよりも処理の過程で目の当たりにした女性への風当たり、もっとはっきり言えば女というだけで意思決定の過程から排除することが当然で、そのことを指摘されると陰湿な復讐を始める男たちのいやらしさ、またそういう男たちに過剰適応してしまったビジネス界隈のさもしさや悲しさのほうがよほど辛く、精神的にもはるかにこたえた。
 ただ、情報収集のかいもあってトラブルはこちら側の要求がほぼほぼ通る形で収束し、業績も手堅く伸びている。創設者たちの身内や知人だけで回していた業務も、そろそろ外部から人材を獲得せねばならない規模へ拡大しつつあり、技術のないおっさんの居場所はほとんどなくなっていた。

「まぁ、潮時だろうな。元の暮らしへ戻るころあい、か」

 そんなことをつぶやいて、こんどは冷たい飲み物でも買おうかと立ち上がった時、撤去した機器類を抱え顔を真赤にしているペットロスの女と目が合う。
「きてきて! たれたケーブル拾って!」
 椅子から腰を上げた姿勢のまま駆け寄り、ケーブルや機器を支えながらテーブルまで運ぶと、ペットロスの女はひとつづつ慎重に腕からおろす。
「ありがと、助かった」
「いやいや、こんなことぐらいしか手助けできないさ」
 なんとなくペットロスの女から目をそらし、うつむき加減でぼそぼそ応えると、やや耳元の近くから「ふふ、猫の手よりはかなりマシ」なんて返ってくる。
「そういや、モンちゃんは元気? さすがになじんだ?」
 言い終える前に、俺はかなりまずい話をふってしまったことに気がついていた。先代の猫が虹の橋を渡ったとき、ペットロスの女は一時的な狂気と鬱に襲われたが、いまは保護猫を引き取って暮らすほどに持ち直していた。そんなわけで、以前にもましてネコとアニメとゲームとマンガとボーイズラブの話をさせたら最後、めちゃめちゃ長くなる、しかも全く要領を得ないのは嫌というほどわかっていたが、もうすっかり手遅れだ。
「モンちゃんでしょ! なじむとかなじまないとか、そういうんじゃないのよ……」
 大げさな身振り手振りを交えつつ、ヲタクそのものの早口で喋り始めたペットロスの女をながめながら、俺はまだしばらくここにいるしかないのかもしれないと、さっきとは正反対の思いが湧き上がってくることを、この上もなくはっきりと自覚していた。


ここから先は

0字

¥ 100

¡Muchas gracias por todo! みんな! ほんとにありがとう!