見出し画像

見切り品のお菓子と甘ったるいミルクコーヒーとデーツの午後

 窓の外、ひらひらと、なにかが飛んでいる。
 蝶かな?
 手を伸ばそうかと思いながら、頭の中でふるい映画のラストシーンが上映される。
 ふわりと空気がゆらぎ、化学薬品が作り出した柔軟剤の臭気が顔にまとわりついた。
 すぐぞばで人間の動く気配を感じ、モニタから目を離す。
 誰かな?
 ほとんど反射的に身をすくめてしまう。
 べつにサボってはいなかったし、居眠りもしていない。いちおう仕事をしていたが、それでもなにか後ろめたい気持ちは消えない。なにしろ、育休代理のそのまた代打で、わけもわからないまま、とりあえずモニタをながめて過ごすだけ。それが仕事だと割り切っているつもりだが、自分のどこかに刻み込まれたままの、つまらない規範意識がそれを許そうとしない。
 だいじょうぶ。なにかあっても、週末までの辛抱だ。
 自分に言い聞かせながら、静かにあたりを見回す。

 休憩しましょ。きゅうけいですよ。
 モウンラィコン。スンバエレンッ。

 けして大きくはないが、それでもはっきりと、そしてかすかに華やいだ雰囲気を含んだささやきがひろがり、聞き慣れない異国の言葉も交じる。

 コーヒーイカガ?

 遠慮がちな声に横を見ると、小柄な丸顔の女性が微笑んでいる。
 きれいに真ん中で分けた前髪に大きな丸い目、くっきりした二重まぶたを少し伏せるように微笑んでいる彼女に、俺は曖昧な笑顔に「ありがとう、いただきます」とそえた。できるだけゆっくりと、はっきり発音したら、つっと振り返り、えらい早口で「こっちありますね」と言って、足早に長机へ歩みさった。
 ドラッグストアでまとめ買いしたらしい見切り品のお菓子が無造作に積まれた机の周囲には、コーヒーカップやら保温タンブラを手にした社員たちが集まり、すでにめいめいが定位置であろう席についていた。

 え? なんで、なんでおそろいなの?

 面食らった俺は、こっそり自席へ引き返そうと後ずさる。
 だいたい、今週いっぱいの員数合わせにすぎないんだし、こういうのは座る場所が、いや、どこへ座ってもろくなことがないんだ。
 しめやかに、なにくわぬていでその場を立ち去ろうとしたとき、じっとこちらをみている、さっきの丸い顔と丸い目に気がついた。
 通じるか通じないか、ダメもとで会釈しながら自席へ目をやると、くっきりした二重まぶたを大げさに見開き、おまけに『それは良くない』と言わんばかりに頭をふった。

 しょうがないので彼女のとなりに座ると、大きな紙コップを重ねワンドリップコーヒーをセットした女性が、俺に向かって「ちょうどよかった。いま淹れますからね」と言いながらお湯を無造作に注ぎはじめる。電気魔法瓶がうなり、ワンドリップコーヒーのちっぽけなフィルタにドボドボ流し込まれる湯に気がついてしまった俺は、ただうつむいて渋い顔をみせないよう、さとられないうちに表情を作り込もうと、そればかり考えていた。
 やがて、目の前にはあきらかにエグみをふくんだニオイを放つ、妙に薄くてぬるそうな褐色の液体で満たされた紙コップがおかれ、俺は毒杯をあおる将軍か哲学者のような気分で口をつけた。

 渋くてエグくて、おまけにやや酸っぱい。

 せめてミルクと砂糖でごまかせないかと思うが、視界にはスティックシュガーと植物性クリーミングパウダーしかなかった。しょうがないから甘いものでもつまもうかと、見切り品のお菓子へ手を伸ばしかかったところへ、デーツの袋があらわれた。
 となりから、さっきの女性がこっちのほうが美味しいと言わんばかりに、丸い顔をさらに丸く微笑みながら、その袋をさしだしている。異国情緒を感じるめずらしいもののような気がしたけど、実は大手スーパーのプライベート商品、それもオーガニックラインじゃない激安ブランドで、それにも見切り品のシールが貼り付いていた。
 この職場はなにもかも安いなと、ボヤキのひとつもでかかったが、それよりも大手スーパーのプライベートブランドがデーツを商品化してる、それも激安ってところに興味を惹かれる。

 ありがたく、ひとつぶちょうだいする。

 やけに小粒で固めだが、味は悪くない。ねっとりとした食感と、やわらかい甘みが舌に心地よい。少なくとも、悪名高いウイスキーや食パンのように、健康を害するのではないかと不安になるような味ではなかったし、ディストピア飯として消費するにはもったいないほど、ちゃんとした人間の食べ物だった。もうひと粒いただけないかと思ったところ、こんどはじゅっぷりシロップに浸かったドーナツのような揚げ菓子を勧められる。
 流石にちょっと甘すぎるだろうし、手がベタつくのもどうかと思ったし、それにここで手作りのなにかを口にする危険を感じなかったといえば、それはまったくうそになる。
 曖昧な笑顔で申し出を受け流し、冷めかかったコーヒーと呼ばれた汁へ目を落とすと、彼女はなにかを悟ったかのような表情で立ち上がり、奥へ引っ込んでしまった。
 まぁ、いいや。
 ほっといてくれたほうが助かる。
 周囲では、女性たちが日本語や異国の言葉で楽しげにおしゃべりしていて、雀のお宿に迷い込んでしまったような賑やかさ。その中で、数の少ない男性たちは会話に加わるか、だまってスマホをいじっているか、いずれにせよあまり居心地が良さそうにはみえなかった。そして、俺もちょっといたたまれなくなってきたところに、さきほどの女性が紙コップを手にもどってくる。

 おやおや、またコーヒーかいな。
 いや、もしかして、冷めたから代わりのを催促したように取られたとか、そういう流れか?
 めんどくさいな。

 いたずらを見つかった猫のように無関係をよそおい、できれば俺の勘違い、自意識過剰であってほしいと願っていたが、彼女は当たり前のように隣の席へ戻り、さあどうぞと言わんばかりに紙コップを目の前に置いた。もはやこれまでと、紙コップを受け取って持ち上げ、とりあえずひとくちすする。
 やけに甘ったるいにおいがする、あたたかな白茶色の液体は、あらかじめイメージし、覚悟していたよりもはるかに甘く、ねっとりと舌にからみつく、不思議な味わいだった。しかし、それでも最初に飲んだかつてコーヒーと呼ばれた液体よりはるかに美味しく、飲用に適している。

 練乳コーヒーか……。

 誰に言うともなく独り言ち、半分くらい飲んだ。
 飲み始めはまだよかったが、だんだん甘さが辛くなってくる。底の方は溶け残った練乳と砂糖が泥砂のように固まっていて、とても飲めたものではない。
 申し訳ないが捨ててしまおうと、紙コップを手に立ち上がると、丸顔の彼女がまた首を振っている。なんだろうと思って座り直すと、俺が飲み残したあの黒い汁を指さし、甘い泥砂いりカップへ注げと言わんばかりの仕草を見せた。まぁ、言いたいことは把握したと思うけど、それを受け入れるかどうかは別問題だろうと思う。
 多くの場合は、ね。
 とはいえ、だ。

 かつてコーヒーと呼ばれたなにかと、練乳砂糖の泥砂を混ぜるとどうなる?

 俺は自分の好奇心にしたがって、すっかり冷めてしまった黒褐色の泥水を、土色の甘い泥砂と混ぜる。ほとんどコマーシャルの魔女めいた気分で、ケミカル菓子のようにベタベタする液体をこね、意を決して口にした。
 あ、美味しいや。
 とりあえず、最初に飲んだ黒い液体とは比べものにならない。
 これはちゃんとお礼を言おうと横をみたら、すでにお茶の時間は終わり、その場には俺しかいなかった。

 やっちまった。

 でも、だいじょうぶ。なにかあっても、週末までの辛抱だ。
 自分に言い聞かせながら、ひっそりと自席へ戻る。

ここから先は

0字

¥ 300

¡Muchas gracias por todo! みんな! ほんとにありがとう!