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サブカル大蔵経523『宮沢賢治全集(10)』(ちくま文庫)

覗き見る、宮沢賢治曼陀羅。

ひらがな、カタカナ、アルファベット、数字、図画、漢文。
教師、農家、宗教、妹、畑、虫。
鬱屈と解放。

「朝寝の害」
朝寝はたいそー害になるものでいちどこの習慣をつけると容易に止められません。それですからこの習慣をつけないように気をつけなければなりません。朝寝をした日はその日1日なんとなくぼんやりとしてたいそー心持ちが良くありません。それに反して早起きをした日は頭がハキハキとしております。また朝は新鮮な空気が家の外にあるのに毎日悪い空気ばっかりを吸って朝寝をしてをるから吸わないばかりでなく自分の吐く息は炭さんガスが混じってをって自分のねまいっぱいになってをるのを吸うから自然身体も弱くなります。また昔から成功した人は大抵早起きな人であります。また読本で習った「白い雀」の農夫も朝寝をしたためにびんぼーになったのがそれを直したところが元のようになったといいます。私どもはそれですから朝寝をしないように気をつけなければなりません。p.476

たいそーで、びんぼー。

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雨ニ モ マケズ
風ニ    モ マケズ
雪ニモ夏ノ暑サニ
モ マケヌ
  丈夫ナカラダヲ
       モチ
慾ハナク
決シテ瞋ラズ
イツモシヅカニワラッテ
ヰル
一日ニ玄米四合ト
 味噌ト少シノ
    野菜ヲタベ p.51・52

 アラユルコトヲ
 ジブンヲカンジョウニ
       入レズニ
     ヨク
       ミキキシ
ソシテ 
  ワスレズ   ワカリ
 野原ノ松ノ林ノ蔭ノ
  小サナ萱ブキノ
     小屋ニヰテ
 東ニ病気ノコドモ
     アレバ
 行ッテ看病シテ
      ヤリ     p.53・54

 西ニツカレタ 
       母アレバ
 行ッテソノ
    稲ノ束ヲ
       負ヒ
 南ニ
   死ニサウナ人
       アレバ
 行ッテ
  コハガラナクテモ
       イゝ
         トイヒ
行ッテ(赤鉛筆) p.55・56

 北ニケンクワヤ
     ソショウガ
         アレバ
 ツマラナイカラ
      ヤメロトイヒ
 ヒド(デ)リノトキハ
     ナミダヲナガシ

 サムサノナツハ
   オロオロアルキ
 ミンナニ
    デクノボート
         ヨバレ p.57・58
 ホメラレモセズ
 クニモサレズ
   サウイフ
      モノニ
   ワタシハ
     ナリタイ
 南無無辺行菩薩
 南無上行菩薩
南無多宝如来
南無妙法蓮華経
南無釈迦牟尼仏
 南無浄行菩薩
 南無安立行菩薩   p.59・60

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日付は青鉛筆

Kenju
Miyazawa
Kenjy
Miyazawa
Mental Sketch
Modified
1931.
9. 6.
The Great
Milky Way
Rail Road
Kenjy Miyazawa p.92

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みやざわけんじゅー

異空間に関する資料p.129

銀座四七六九 以上兄妹手帳 p.129

人の絵、木兎の絵 MEMO手帳p.148

思索メモ
物質、世界 
   生物 分子ー原子ー電子ー真空
   我
   異世界      p.423

 宮沢賢治の〈空〉思想

〈国語綴方帳〉
花城尋常小学校六学年 宮沢賢治
「和気広虫」
和気広虫は清麻呂の姉であります。
生まれつきたいそーなさけ深くありました。他の家によめに行きましたがその夫が死んでからあまになってこーけん天皇につかはれました。
ある時藤原仲麻呂がむほんしました。その時天皇をおいさめ申してむほんに組したものを助けました。その後に大ききんがあった時あちこちに人をつかはして捨児をひろはせて自分が養っておきました。そーした者八十三人の多くに上りました。
その後清麻呂が島流になった時広虫も流されましたが後にゆるされて帰って尼に位をやる役になりました。
こーけん天皇は広虫を責めて「他の人は人の事を悪くいひなどするが広虫がさういふ事を云ったのを聞いたことがない」と申されたとのことであります。p.473

こーけん天皇!

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害虫の駆除法を問われしに答ふ、
拝啓、お尋ね下されし、害虫駆除法は先だって読本にて読み候に付き御答え申し上げ候、害虫の種類も一様ならず候へば私の知ってゐる3、4種を御答え申し候、サナダムシは稲の害虫にてその蛾となりし頃、燈火を田におきて誘い殺すべく、浮塵子は水田に石油を少々そそぎて、ふるい落として殺すべく候。又夜盗虫は畑の周りにみぞを作り、その所々に穴を掘りおき、夜この虫のはい回って穴に落ち集った所を殺し、ありまきは石油にしゃぼんを混ぜたものやたばこの煮汁苦い汁などをかけて殺すがよろしく候。なお又駆除法は共同一致いたしてなさずば効果少なく候。p.475

 殺すべく候

1月1日
朝起きてからご飯を食べて四方拝の式があるので学校に行きました。遊んでをる中に笛が鳴って、御真影の御倉の前に並んで御真影をお迎えしました。それから式場に入って私どもが君が代を歌ったり勅語を校長さんがお読みになったり校長さんのお話があったりして式が終わりまた御真影をお送りして家に帰りました。そして雑誌などを見ていました。そうしている中に鐘がなって火事がありましたが一けんで消えました。それから鍛冶町に遊びに行って、夕方帰ってきました。夜は早くやすみました。p.476

 サハリンの博物館で真影箱見ました。

この法滅の相を見ば
仏恩報謝このときと
共に力を貸したまえ   
       法華堂建立勧進文p.612

1921年大正10年二十五才
1月突然上京。街頭布教。国柱会の高知尾智燿のすすめによって文芸による大乗仏教の普及を決意した。p.676

 仏教と街頭布教と宮沢賢治

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