見出し画像

サブカル大蔵経44 西村玲『近世仏教論』(法蔵館)

 著者の死後に編まれた論文集。重複が多いが、数種類の新書出せるくらいの分量と範囲だと思うが…。もったいない…。

 今まで見過ごされがちだった<仏教>を史料とともに紹介していただきます。

 黄檗僧侶、了翁道覚。隠元に出会い執行を重ね、自らの男根を断つ。夢の中で薬の作り方を感得。この薬を錦袋円と名づけ上野の不忍池で売り出すと飛ぶように売れ、6年後には3千両が溜まり、それで黄檗宗や高野山、諸宗に黄檗宗版大蔵経を寄進、経蔵を建立。さらに捨子幼児の養育施設を作った。p.12

 江戸唯一の新しい宗派・黄檗についてはもっと知りたい。既存宗派が軒並み思想的な停滞感があった中、ユニークかつ根源的な姿勢、そして実践的な活動が多い。

 真宗の談義本とは、もともとは中世において僧侶が説法を行うためのテキストであり、庶民のためのわかりやすい譬喩や因縁談をその特徴としている。近世においては、僧侶ならず一般庶民も談義本を読むようになった。民間の書肆によって出版された談義本では、真宗一般では行われないとされる神祇信仰や呪術の功徳が説かれたり、親鸞や蓮如の著作であるとされた偽書が数多く流通していった。近世中期にはそうした談義本が大量に出回るようになり、危機感を覚えた西本願寺は、教団自ら明和二年1765年に『真宗法要』を出版する。これは談義本を含む三十九部六十七巻の真宗書を集めて、誤字や脱落を訂正したものであり、親鸞の五百回忌記念事業として、7年の歳月をかけて出版された。中略 真宗法要の出版と、近世を通じて行われた談義本の真偽判定は、本山が正統な教えを定義して、権威を独占することを意味している。p.19

 この辺りから「教団」の権威化が高まるのか、権威を回復しようとしていたのか。

 各宗における典籍の整備は、本山と檀林の権威を支える役割を果たし、その後の宗学研究を大きく発展させた。各宗各派において教学が精緻に研究されていく中で、それぞれの思想が体系化され固定化し、兼学・兼行が不可能な近世的な宗派意識が形成されていった。(共に引野享輔氏著作参照)p.19

 兼学・兼行が認められなくなった。薄っぺらくなるというか、近視化していくというのか、余裕がないように感じました。

 浄土律僧の普寂は1776年『天文弁惑』を著し「現実の事象はいわば原子の集合離散であり、本質的に空である」として、現世を解体する仏教の基本的立場を示す。その上で「須弥山世界は、インド聖者の瞑想中の影像である」と述べて「天文学は極めて精巧な学問であるけれども、悟りを開くという仏教の目標から見れば、地球説も須弥山説も無意味である」と結論した。富永仲基と普寂は、「須弥山世界は瞑想中の影像であり、仏の真意とは無縁の方便である」と位置づけて、いわゆる近代的な意味での宗教と科学を峻別した近世中期、聖界と俗界の知識人において、仏教の内なる近代化が誕生しつつあったと言えるだろう。p.27

 江戸時代の方が今よりしっかりしている。と見えちゃいます。

 三郷惑乱当時には様々な学派が起こって研究が盛んになったが、それ以後は学説が慎重になり、堅実ではあるが目立った発展は見られなくなったとされる。p.48

 お西の背負った業でしょうか。

 キリシタン批判の排耶説法を行った日本禅僧は、明末禅僧のキリスト教批判をそのまま援用している。少なくとも17世紀の段階では、日中両国の距離は精神的にも物理的にも、想像以上に近かった。明末仏教を受容したのは、長い戦乱の世を経て新しい仏教を立ち上げようとしていた日本僧たち、まずは禅僧と律僧がその担い手ではなかったか。p.160

 明末仏教のことは初めて目にしました。まったくなかった視点です…。この時点でも影響し合ってたんですね。

 かつて海老沢が述べた「(キリシタン文献は)東西文化交渉しそして日本文化史、思想史上、貴重な基礎的文献であり。史料である」と言う言は、『妙貞問答』において証明されつつある。キリシタン研究は、永らく主流であったキリスト教からの研究を土台としながら、日本一国から世界史的な枠組みを踏まえたものとなり、キリスト教以外の視点からの思想史的研究が始まっていると言えるだろう。キリシタン史の蓄積を踏まえた上で、仏教であれ儒教であれ、受け手である日本の思想史にキリスト教思想を組み入れてくことは今後の個別研究を進めるために必要な作業と思われる。p.170

日本のキリシタン研究を通じて日本仏教もあぶりだされてくるのかと思いました。宣教師の文章も、キリシタンたちも仏教教団に対する忖度がないから、見たことない光景が浮かび上がるような…。

 仏教との対決を迫られて、熱心に仏教学んだイエズス会士は「地獄や極楽を説く念仏などの教えは大衆のための表層的な教えであって、禅は知識人に対する真の教えである」と理解したp.207

 嫌いな球団の選手について生半可なファンより詳しいみたいな感じですかね。

 西本願寺を代表する護法僧であった超然は慶応元年から明治元年にかけて計4本の排耶論を書いた。超然はこの時期の西本願寺教団におけるキリスト教研究の第一人者とされる。「皇国ノ僧」超然は「皇国に神儒仏ノ三道アリ。協和して国家を護衛すべし」として皇国の一員である神・儒・仏の三教が一致団結して、外敵であるキリスト教と西洋諸国から国家を守るべきであると主張した。p.212

 島地黙雷前後の本願寺僧侶は政治的にもかなり突出してるんだけど、対キリスト教の戦局に高揚して国を代表する先走り感は、どこか情報過多の現代僧侶にも通ずるような気がしてきました。

 浄土律僧の敬首(1683〜1748)は、釈尊を本師と仰ぎ、インドの龍樹と世親を拠り所とした。p.297

 こういう僧侶がもっと増えていいはず。評論家の宮崎哲哉さんが龍樹を拠り所にされているのを公言されているくらいか。

 敬首は、大乗を優位に置く教相判釈説に従ってこの苦界には劣った小乗がよりふさわしいとする主張である。ここで戒律をはじめとする小乗仏教に積極的な意義を認めることにより、大乗仏教は後景に退いていく。敬首のあとをうけた普寂も、娑婆にふさわしい教えは小乗であり、大乗仏教は聖者の瞑想中で密伝されたものとする。p.299

 「小乗仏教<大乗仏教」という公式がずっと疑問でした。祖師と現代の間にちゃんとこういう思想があったのが嬉しいです。

 梵暦運動は浄土真宗の信者を中心に広がったことが推測される。近世仏教におけるインド主義は、仏教思想の近代化において重要な思想的な役割を果たした。p.327

 インド主義あったんだ…。悉曇学や天文学も盛んだったとすれば、南条文雄渡欧以前からも日本の仏教学はもっと豊かだったんですね。この江戸仏教学の法脈を潰したのは「宗派」なのでしょうか?

 北米における仏教徒は常に絶対的な少数派であり、その社会的位置は、近代日本社会において、キリスト教徒がほぼ常に全体の1%と言う少数派であること、かつ啓蒙的なイメージがあることとの、それはまさに相似形である。したがって、北米における仏教思想は、多数派から欠落したものや不備なところを埋める代替的な思想、社会的に少数派の拠り所のひとつとして、これまで機能してきたと言えるだろうp.375

 この相関関係の認識により、自分はメジャーかマイナーかがすぐ入れ替わるはず。

 環境思想家のジョアンナ・メイシー、彼女は、インドのチベット難民とともに過ごす中で仏教に惹かれていった。お茶に落ちたハエをすくいあげて外に逃すチベット僧侶や、チベットにおける中国軍の残虐行為を語った後に、涙をためて「かわいそうな中国人たち」「こんなひどいカルマを作ってしまって」と言う僧侶に出会ったことで人生が変わったと述懐する。彼女にとって仏教の倫理は「ある種の透明さと軽みをそなえ」たものとして感じられ、他の信仰で説く同じような倫理よりも、「特別親しみやすく開放的に感じられ」た。p.384

 仏教の法灯は日本より世界で再点火されていくのかもしれません。

画像1


本を買って読みます。