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サブカル大蔵経992蒲池勢至『真宗と現代葬儀』(法蔵館)

真宗民俗学という貴重な研究。現場の儀礼への相対的な視点。失われたものから学ぶこと。教義や本山よりも身近な儀礼こそが日常な〈宗教〉。
その分野で著名な蒲池勢至さんの講演録をまとめた本書。法蔵館がお東さんの本を出版する時のひとつのパターンかもしれませんが、この形も各章の論点が重なったり、単発だったりしていて、あらためて、決定版の書き下ろしを読みたくなりました。

私が知りたいのは、死とは何か、葬儀とは何か。p.142

学者と現場の葛藤。

「先祖は死んだ」のです。しかし、死と死者は眼前にあります。p.10
 
私が最近頻繁に相談されるのは、墓じまいと、仏壇のダウンサイジング。それに付随する過去帳と写真の整理。これはとどのつまり、〈先祖の整理〉なんだとこの箇所を読んで思い至りました。そして、それは、子供達への負担を減らすことであり、それが私たちの務めなのだと。そのブームはどこから来たのだろう。

葬儀が「商品化」していくということ/けっして伝承されたものではなく、伝承されるものでもなく、単なる「商品知識」です。p.14.15

葬儀会社に厳しめの内容でしたが、それくらい葬儀会館での葬儀社主導になって儀礼が消失したということみたいです。僧侶よりも葬儀会社の方が遺族と寄り添い、儀礼もりも遺族の要望を優先されているとすれば、それも自然な流れなのかもしれません。

鈴木隆泰『葬式仏教正当論』(興山舎、2013年)、北塔光昇『仏教・真宗と直葬』(自照社出版)などがでましたが、きちんと反論することがありませんでした。p.16

島田裕巳『葬式は、要らない』に対して。前回、前々回取り上げた両書は直接的な反論というよりも、ブッダの葬儀や仏教儀礼の歴史を通して現代を照射する内容だったかと思いました。

儀式は、自宅から出棺→葬列→(寺院境内)→火葬場(埋葬墓地)p.18

昭和30年代までの葬儀の流れ。これ、アニメ『赤毛のアン』第48章でのマシュウの葬儀と同じ流れで、びっくりしました。

かつての火葬場や墓地で行われていた頃の葬儀(葬場勤行)は、棺に納められた遺骸が中心で、本尊はありませんでした。御本尊とのお別れは、お内仏で行われた出棺勤行でした。p.20

以前私がよくお手伝いさせて頂いていた近隣の当麻町での葬儀が、この形を守られていました。すべて建物の中で行いますが、ご本尊を置いた前で行う出棺勤行から横に移動して、棺の前で葬場勤行をしました。中から野外へ出て行っているという形を守っていたんだなと思います。守るって、今思えば大事なことだったと思います。

誕生したときの「産湯」は湯の中に水を入れて身体を洗いましたが、死んだときの湯灌は「逆さ水」といって水の中に湯を入れたものでした。p.27

この内容、昨日業界紙の記事で読んだところです。一瞬、英国の紅茶作法のカップに注ぐのはお茶かミルク、どちらを先か、を連想してしまいました。でもあらためて本書で読むと、命の最初と最後、「わたし」は、洗われるんですね。

葬儀がこれほどまて大きく変化したのは、葬祭業者が自らの葬儀会館を建設してからである。/むしろ平成以後の変化の方がすさまじい。p.54

25年前、私が寺に帰った頃の葬儀会場は町内会館や住民センターが一般的でした。今はそれもほとんど無くなりました。

家族葬で僧侶が一名になったということは、どういうことか。執行する側から見れば、従来の仏教的な葬送の儀式が行えなくなったということである。p.61

きんを鳴らしてもらい、七条袈裟をつけてもらう役僧の存在意義。今は私はきんは一人で鳴らし、袈裟は葬儀会社の方に着付けの手伝いをお願いして身につけています。

遺体や墓に執着しないことなど、上座仏教の世界観は真宗の葬儀観と通じます。p.90

 この辺りの文章をもっと読んでみたいです。バリ島の人が日本とバリヒンドゥー同じと言われたことが頭に残っています。


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