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サブカル大蔵経557國分功一郎『暇と退屈の倫理学(増補新版)』(太田出版)

人類はつい最近になって全く新しいことを始めた。それが消費である。浪費はどこかでストップするのだった。物の受け取りには限界があるから。しかし消費はそうではない。消費は止まらない。消費には限界がない。消費は決して満足をもたらさない。消費の対象がものではないからである。人は消費するとき、物を受け取ったり、物を吸収したりするのではない。人は物に付与された観念や意味を消費するのである。p.151

 私は消費を肯定的に捉えていました。素人の〈生産〉はゴミを出すだけで、それなら消費に徹する方がいい…と。しかしあらためて消費の概念を突き詰めていくと…。

レジャー産業の役割とは、何をしたらよいかわからない人たちに「したいこと」を与えることだ。レジャー産業は人々の要求や欲望に応えるのではない。人々の欲望そのものを作り出す。p.130

 大衆車フォードの誕生がレジャーという金のなる木の〈産業〉を生み出した。これ、GOTOトラベルやじゃらんの原点ですよね?そして、このnoteという装置も実は、自分が消費していると思っている行為の背景が、作られた欲望だったのか…?

消費されるためには、ものは記号にならなければならない。記号にならなければものは消費されることができない。/消費者が受け取っているのは、食事という物ではない。その店に付与された観念や意味であるp.152.153

暮らしも食べログも観光も記号の消費…。すべては帰宅する前に慌ただしく写真を撮るだけの行為。そして、私の読書も消費だった…!本書のおかげで、ようやくそこにたどり着きました。いつの間にか自分のしていることは消費では無いと、でも、それこそが消費なのだと突き詰められました。これが哲学か…。

だから余暇はもはや活動が停止する時間ではない。それは非生産的活動を消費する時間である。余暇はいまや、「俺は好きなことをしているんだぞ」と全力で周囲にアピールしなければならない時間である。逆説的だが、何かをしなければならないというのが余暇という時間なのだ。p.159

私は読書した本の付箋を貼った箇所を抜き書きして、スマホの読書アプリに電子化して、それをnoteにアップしています。これは、本という物体を情報に溶かしていく行為で、かつて津野海太郎さんが「本とコンピュータ」でも述べていたと思います。

不思議だったのは彼が楽しんでいるようには見えないことだった。彼の声は明らかに周囲にいる人たちに向けられていた。それはなんというか、自分を見てほしいとの思いが込められた声だった。p.8

なぜnoteに文章をアップしているのか。なぜ、たくさんの人が動画をYouTubeにアップするのか…

私たちの生活が全て気晴らしであるわけではないだろう。しかし、私たちの生活は気晴らしに満ちている。p.241

あらためて読書していきます。でも、少し気持ちが楽になりました。哲学者たちの苦闘のおかげだと思います。これも読書のおかげ。多謝。

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好きなこと/そんな願いがあったかどうかも疑わしい/文化産業に「好きなこと」を与えてもらっているのだから。p.23

 与えてもらっている趣味。

なぜ暇は搾取されるのだろうか?それは人が退屈することを嫌うからである。p.24

 コロナ禍の現在、突き刺さる言葉。みな〈何かをしなければならない〉、〈これではいけない〉と思っている。それは何故なのか?

退屈にたえられないから気晴らしをもとめているにすぎないというのに、自分が追いもとめるものの中に、本当に幸福があると思い込んでいる、とパスカルは言うのである。p.37

 厳しいなぁ、パスカルさん。

狩りをする人が欲しているのは「不幸な状態から自分たちの思いをそらし、気を紛らわしてくれる騒ぎ」に他ならない。p.38

〈狩り〉と言えばこれが思いつきました!

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(吉本浩二『定額制夫のこづかい万歳!』2巻(講談社モーニングKC)p.4より引用)

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(同書p.7より引用)

退屈とは、事件が起こることを望む気持ちがくじかれたものである。/「事件」とは今日を昨日から区別してくれるもののことである。(ラッセル)p.56

 現代社会を表した警句だと思いました。全ての事象の動機は、このことなのでは。

ゴミというのは意識の外に放り捨てたものだ。もはや考えないようにしてしまったもの、それがゴミである。ゴミの分別とは、そうして意識の外に放り捨てたものを、再び意識化することに他ならない。p.86

 原発問題も、このことだと思いました。頭の中情報いっぱいでパンク寸前社会の中で、〈意識の外〉がないと生きていけないのが現代社会であり、わたしであります。それをゴミと呼ぶ。國分先生の『原子力時代における哲学』も目から鱗でした。

労働者に適度に余暇を与え、最高の状態で働かせること、資本にとっては実はこれが最も都合が良いのだ。p.123

 マルクスもこのことを知っていた…?

必要なものが必要な分しかない状態では、人は豊かさを感じることができない。必要を超えた支出があって初めて人は豊かさを感じられるのだ。必要の限界を超えて支出が行われるときに、人は贅沢を感じる。ならば、人が豊かに生きるためには、贅沢がなければならない。p.150/贅沢を取り戻すことである。贅沢とは浪費することであり、現代社会ではその浪費が妨げられている。人々は浪費家ではなくて消費者になることを強いられている。p.355

 消費の範疇を超えた浪費という贅沢のみが満足をもたらす。これまた恐ろしいが。国家は、生かさず殺さずを徹底するから浪費は妨げられるのか…。

ハイデッカーは最後に変なことを言っている。物にはそれ特有の時間があると言うのである。たとえば、駅舎には駅舎に特有の時間がある。それは何だろうか?駅舎に特有の時間とは、駅舎というものの理想的時間である。その理想的時間とは何かと言えば、列車発車の直前である。列車発車の直前に駅に到着し、待たずに列車に乗り込めた人は、駅舎の理想的時間にうまく適合したのである。/私たちは何かによって退屈させられている時、その何かが持つ時間にうまく適合していないと言っているのである。p.224

 國分先生の文章は、先人の思想を紹介して、なるほどと思わせて、その上ですべてそうだろうか?と批判して、あらためて考えていく。だから信頼できます。

しかしそうした現象はダニにとっては存在しない。狩りのために待ち伏せるダニが感じ取るのは、先に見た三つのシグナルだけである。だからダニの世界には、それ以外のものは存在していない。p.269/人間は世界そのものを受け取ることができるから退屈するのではない。人間は環世界を相当な自由度を持って移動できるから退屈するのである。p.299

 匂いと温度と毛のない皮膚のみを知覚するダニとわかったつもりの人間の比較。そこから導き出されるのは、優劣でもお説教でもなく、人間らしさと、可能性でした。仏教理解にもつながるお話でした!

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