罰ならば浄海に

 1181年3月22日、平"大相国"清盛は地上の太陽になった。
 病つき給ひし日よりして、水をだに喉へも入給わず。身の内の熱き事、火を焚くが如し。臥し給へる所10メートルが内へ入る者は、熱さ耐えがたし、云々。
 清盛の妻、従二位時子の夢見により、発病は閻魔庁の裁定で、前月にあった奈良焼き討ちの報いだとされた。奈良南部大衆といえば一端の武装勢力。お家に反抗する以上は討伐やむなしと一門は理解していたが、それはそれとして、それはそうなるよね、と預言は簡単に受け入れられた。
 清盛の安置所に自宅を差し出した家令、平盛国だけは同情を集めたが、七十路の男は粛々と六波羅館に移り、清盛の三男、宗盛を推し立てつつ政務を続けた。
 そうして時が過ぎ、年が暮れ、12月。都に初雪が降った。

 だからどうしたというのだ。二十歳の知度は灰色の空から視線を落とした。目にも肌にも寒々しい鴨川の河原にはゴザが敷かれ、九人の男女が縛られ跪いていた。
 目の暗い老人がおり、肥えた女がいた。侍が二人、僧が二人、痩せた子ども、見知った下人、豪奢な公卿がいた。文字通りの老若男女。その肩の彼方に盛国邸の発光が見えた。六波羅館はそのすぐ近くにある。
 十人は平家の手勢に囲まれていた。槍や弓矢を携えた兵たちはいずれも平服だった。彼らはただ見届けるためにいる。何を。知度の破戒を。殺生を。誰もが無表情で、寒さに震えていた。
 それは悪い。知度は刀を抜いた。この場で唯一、知度だけが一分の隙も無い武者姿だった。華美であり、場違いだった。
「経を唱えてくれ。唱えなくても良いんだが」
 清盛の七男、平知度は左端の老人に嘯きながら待たずに皺首を切り落とした。

 館からの使いがあり、一連の殺生を終えた知度に人死を知らせた。清盛の八男、妄語の清房が死んだ。
 知度は弟の明るい笑顔を思い、涙を流した。父は熱を放ち続けている。子の罪悪はその薪となる。自分が平家の敵ならば、そこを狙うだろう。 【続く】

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