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かなえたい夢 - 地方活性への小さな挑戦の物語 -

この物語は、過去3年間、悪戦苦闘して、ようやくスタートラインにたったという、日本の地方の小さな小さな事業開発物語である。

嘘偽り一切ない完全ノンフィクションだ。

かなり、マニアックではあるが、歴史的にも、日本の未来を考える上でも、しかと言語化し、残しておきたいと思い、これまでの物語をまとめてみた。

是非とも、ご一読いただけると嬉しい限りだ。

始まりは3年前

物語は3年前の親族の集まりから始まった。親族と話している中で、話題がサウナになった。「なんだ、サウナ好きなの?」。だったら熊谷建設なら作れちゃうじゃん。

そうだ。家業である熊谷建設の木材を使用してサウナをつくろう。熊谷建設の匠の技術があれば十分可能だ。地元の木々を利用し、余った廃材を燃やすことでサウナの熱源を確保する。そしてそれによってビジネスが成立すれば、雇用も生まれ、地産地消の循環が生まれる。

そこから物語は始まった。

それは苦戦を強いられる茨の道の始まりでもあった。その悪戦苦闘の”前半戦”の物語は、以下にまとめらているので是非読んでいただきたい。(かなり量もあるので、流し読み or スキップでも大丈夫です)。

結論的には、サウナビジネスを展開する場所を、僕たちは2年に亘り探し続けることになった。適した場所などそう簡単に見つかりはしない。どうせやるならば、全国から人が集まるようなサウナ事業をしたい。だが、場所探しは想像以上に難航した。

そして悪戦苦闘の末、最終的に見つけた場所は、まさかの自分の実家からすぐそこの場所だった。自分が生まれ育った場所は「本間新田」という小さな小さな集落。日本を代表するような限界集落であるが、大自然に囲まれた自慢の故郷である。


よし、ここでサウナを通して面白い事業やってやろうじゃないか!!

本間新田での挑戦

まずは、その事業内容を本間新田の住民に説明する必要がある。

緊張感あふれる雰囲気で説明会は始まった。いきなり故郷に帰ってきてサウナビジネスを始めよう、だなんてきっと狂ってると思われるにちがいない。でも、僕はこの本間新田で生まれ育っている。生まれたときから自分のことを知っている皆さんだ。最終的には、「もときくんを応援するよ!本間新田を元気にしよう!」と、小さな村は未来に向けて団結を選択した。

本間新田の公民館での事業説明会

そして事業を行う予定地の土地保有者も、本間新田を元気にしてくれるならば、無期限無償でこの土地をもときくんにかすよ、といってくれた。

胸が熱くなった。

よし。やろう。
どうせやるなら、日本NO1. 日本最大級のサウナ村をつくろう!
高台から見える夕陽とともに、最高の体験をつくろうじゃないか。

バレルサウナの試作品も完成した
本間新田にあるサウナ予定地
工事を始めるにあたり地鎮祭を
日本最大級のサウナ村構想だった
完成イメージ

だが、ここから物語はまた大きな転換を迎えることになる。それも絶対にあってはならぬ最悪の大転換だった。

その大転換を語る前に、少しだけこの本間新田という土地の歴史と成り立ちについて触れようと思う。

水なき場所に生まれた集落:本間新田

サウナビジネスのおいて、「水」の存在はとても重要であることはいうまでもない。水蒸気で温度を上げて熱風(ロウリュウ)を楽しむ。そのあとは、水風呂に飛び込む。水あってこそのサウナでもある。

だが、この本間新田という場所は、元来水がとても乏しい土地だった。水がなければ農業もできない。そうすれば人々も生活ができない。本間新田とあるように、この場所は、遠い昔に野山を切り開いて開拓された「新田」である。そしてそれを実現したのが、本間新田含む旧川東村に君臨した大庄屋であり大事業家の本間家だ。本間家が本間新田を開拓し、人々の入植が始まった。僕の祖先もその入植組の一組であることはいうまでもない。

話を「水」に戻そう。

この本間新田という場所は水が乏しい。そこで、本間家は私財を投じて1000メートルを超える山の裏側から本間新田へ水を引く大工事に打って出た。本間新田に生活環境と農業を実現するためである。

その物語は、現代を生きる僕たちには信じられないような奇跡のような話ではあるが、今でもその水を引くための作業は伝統として続いている。本間新田出身の僕も、今ではその伝統を受けつぐ身となっている。

その奇跡ような物語がここにある。「赤滝を目指せ」。是非読んでもらいたい。必ず読んでもらいたい。

本間家のおかげで、本間新田が生まれ、この土地に「水」がやってきた。

さて、話をサウナ事業に戻そう。

サウナと水と共に、地鎮祭を終え、さぁ、工事開始だ!と思った暁に、信じられないような大転換が僕たちを待ち構えていた。

問題は、また「水」だ。

この予定地には下水管が走っていない。水風呂でつかう水は、そのまま下流に流すことになる。でも、あくまで水風呂の水だ。当然ながら、事前に役所はじめ、関係各署には承諾をもらっていた。こちらもビジネスだ。そのあたりは、周到に事前準備をした上での土地の選択だ。こちらに抜かりはなかったはずだ。

ところが、下流の農家の一名から、水風呂の水の放流に難色を示す人が現れた。タイミングも悪かった。福島の原発処理水が海ながされることについて、世界が騒いでいた時期と重なった。水風呂の水を、あたかも処理水と重ているかのような態度をとられた。

そして、一人でも反対が出始めると、役所始め、関係各署の態度もネガティブな方向に変わり始めた。役所はあくまで農家をまもる立場であり、一人でも反対がいると、承諾できない、というまさかの大どんでん返し。頭が真っ白になった。

考えてもみてほしい。僕たちは、限界集落で雇用や消費を生む事業を始めようとしているのだ。農家を守ることはわかる。でも、そのたった一農家のために、未来をつくる挑戦を諦めてしまってもよいのか。役所の皆さん、未来を考えてくれ!!

でもダメだった。役所は未来を選択せずに、農家の声を選択した。

頭にくる。どうしたらいいんだ。
とはいえ、行動しか未来は変えることはできない。
何か策はないか?

そこで編み出した戦略は、自ら下水管を工事して設置し、最も近くまで来ている下水管まで接続するということ。ただし、その下水管の分岐は、この予定地より高い位置にある。それも数百メートル先の彼方だ。水は高いところから、低いところに落ちる。その逆の流れを実現するにはポンプで組みあげるしかない。水風呂の水のために、ここまでプロジェクトXみたいなことをしなければならないのか?もちろん、これを実現するためには莫大な投資金額が必要だ。

実際にポンプで吸い上げる策を検討した議事録

それでも諦めたくない。実現するために、下水管工事をするために、見積もりを二社にとる。かつ、毎日水をポンプで汲み取るわけだ、電気料金、人件費。。。コストをシュミレーションする。

全てが非現実的だった。

万策尽きた。

この時点で、本間新田でのサウナビジネスを諦めざるを得なかった。

本間新田の皆様も、一緒に残念がってくれた。

本間新田を元気にしたかったと。

こうなったら、他の土地をまた見つけてやる。

本間家とは

さて、ここで一つ寄り道をしたい。

本間新田を開拓し、本間新田に水を授けた本間家が、大変力のある事業家、大庄屋であったことは上に触れた。

その本間家11代目の本間百在門はとりわけ地域社会に大きな功績を残している。現在新潟県新発田市にある旧川東村では、村長を31年務め、農村であった川東村に学校を新設するなどし、川東の人々に教育という武器を授けた。新発田市の歴史的な偉人としても数えあげれるほどの人物である。

そんな本間百在門の功績をまとめた本が遠い過去に出版されている。
それが「教育村川東- 本間百在門と村人の軌跡」である。

何を隠そう、この本の出版するにあたって構成された編集メンバーの一人が私の祖母である熊谷ノリである。本間新田で生まれ育った者として、この出版に際し、自らきっと手を挙げたのだろう。本間家への敬意と感謝を込めて。孫ながら、祖母の情熱を感じる史実だ。

そして、また物語は大きな大転換を迎えることになる。それも奇跡のような大転換だ。いや、これは奇跡だと言えよう。

僕の人生にとって、本間家とは、切っても切れない関係にあることは述べたとおりだ。生まれ育った本間新田も、そこに水を授けた大工事も、そして今でも続く赤滝という伝統も。祖母が参画した「教育村川東- 本間百在門と村人の軌跡」も。

その本間家の生家、川東の中心にある本間家の住居が、現在は空き家になっているのだという。それも3500坪もの大きな敷地を構え、伝統と歴史を背負った場所。

時代も変わった。様々な背景もあったことだろう。
だが、今日、空き家となって存在している、が現実だ。

その情報を知った時に運命を感じた。

あの場所を受け継ごう。
あの場所で勝負がしたい。

伝統のバトン 本間家の敷地で挑む

そこからも長い旅路で、文章では書ききれないけれど、物語を早送りすると、最終的に、本間家末裔である本間さんが、本間家の土地、母屋、全ての権利の売却に関して合意してくれた。自分が代表をつとめる株式会社Ahead of the curveでその全てを受け取ることに合意した。

地元では、本間家は「本間さま」と言われ、歴史的にも崇められている存在だ。その土地を取得し、事業をしようなんぞ、もはや狂っているとしか思われないだろう。

でも、一つ一つ説明し、地元住民の皆様の理解を経て、応援してもらうことがとても大切である。だからこそ、村の中心の集落で、説明会を実施して思いを伝えた。「教育村川東- 本間百在門と村人の軌跡」の本も持参し、本間新田で生まれ育ったこと、全ての想いをぶつけた。

そして、住民の方々からの理解を得ることができた。

頑張ってください。その言葉が嬉しかった。

以来、
半年をかけて、様々な交渉と構想を重ねてきた。
この3500坪の土地ではサウナだけをするには惜しい。

根本から事業構想を練り直すことにした。
新しい事業の内容は、是非とも乞うご期待とさせていただきたい。

今度こそ。

地鎮祭には正装で臨んだ。
本間さまへの敬意を込めて。

本日、2024年4月28日。
本間さまこと本間さんと土地と母屋全てを買い取る契約書を巻いた。

2024年4月28日。
本間家が繋いできた伝統と歴史を確かに受け取った。
未来へつなぐ。

地方の小さな小さな挑戦だけれど、全ての変化は最初の一歩からしか始まらない。

是非とも、この挑戦を応援していただけますと嬉しいです。

この場所に世界から人が集まるような仕掛けをつくって挑みたい。

日本から世界へ。
新潟から世界へ。
川東から世界へ。
そして、伝統と歴史を革新と未来へ。

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