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K.488第2楽章の楽譜を見ていると

K.488の第2楽章はadagioではある。しかしこの曲をあまりに8分音符の6つ並べにしてしまうと付点リズムは死んでしまう。6拍子のむずかしいところだ。

この付点リズムの微かな躍動を次の小節へ向かうための跳躍力として使う。そういう連動感がないと音が並んでいる虚無感しかない。もちろん、その茫然自失な虚無感も表現の一つかもしれない。けれど、そのリズムの死んだ表現では後に寄り添ってくるオーケストラのシンコペイションにも意味がなくなってしまう。つまり、一つの小節さえ支えられない体幹ではもはや「3拍子が2つ」状態になってしまうからだ。

これはテンポの問題の前に演奏者の力量の問題だ。6拍子の小節をひとつとして捉えられる把握力がなくてはならないのだ。だが、この問題は案外、音響を聞いているのか、音楽を歌っているのかの姿勢の違いに関わっているように思える。

この問題に初めてぶち当たったのはK.550の6/8andanteだった。そのひとつひとつの8分音符の温かみを感じていたその頃の自分は実は音楽を捉えてはいなかった。それらの浮遊する八分音符たちを統べる骨格が見えていなかったのだ。自分はその8分音符を指揮している。そんな状態では到底音楽にはならないことを思い知ったのだ。8分音符を直接的に動かすのではなく、その土台をコントロールすることによってその上に浮遊する音符たちを動かす。それが指揮であり、演奏なのだ。

このことに気がつかないと特に6拍子の目的はわからない。なぜ3拍子ではないのかに気がつかないままで終わる。そもそも拍子とは何か、小節とは何かにさえ気がつかないで終わってしまう。

青年期の自分にとって6拍子や12拍子で悩むことは大事なきっかけだった。6拍子の拍節の中でその4拍めからスタートするフレーズはシンコペイションなのだということに気がつくと自分のリズム感の決定的な間違えに気がついたものだった。そういう問題を克服していく中で6拍子も12拍子も自分のものになっていったものだった。

そういう今の視点から見て、このK.488の6/8adagioの楽譜はとても興味深いのだ。

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