見出し画像

たまにはすること(doing)を手放し、いること(being)でありたい

human being = 人間であるのに、何かしらしていませんか。

なにかしていないと、なにかすることは無いかと考える日々。
目的を作り、達成のために向かって奔走する日々。

少し深呼吸をし、そんな日々に間をつくり、beingな時間を綴ります(綴るのももはやdoingですが…)。

1997年に生まれて、2004-2016年まで公立の小中高で教育を受け、決められた教科の授業を受けてマルバツで点数化・評価が当たり前。将来は”良い”学校に入ったり、”良い”仕事に就けたりできるように、訳もわからぬまま、そういうものなのだと、当たり前のように”がんばっていました”(個人的に「頑張る」という言葉は昔から好きではないです)。
そんな過程を辿りながら、大学の時にこそ「考え、その考えを文字や言葉にする力」をいきなり試される授業に変わりました。大学では思考力を養い、狭かった視野を広げる良い5年間を過ごしたと思います。学びたい授業を取ったり時にサボったり、インターンや国際ボランティアをしたりと、のびのびと自由に生きていたなと。

就職するとそれは一変します(そもそも就職活動から苦痛の連続…)。ちょうどパンデミックと重なった2021年4月入社し、研修から全てがフルリモートで、週5日8時間、家に閉じこもる生活に。ついでに、親元を離れたので、平日に接触する人は、コンビニやスーパーの店員くらい。毎日外に出て人と関わっていた大学時代とは大きく変わってしまったのでした。

ある意味、自己を見つめる良い期間になった退職までの1年半。ヨガと出逢ったことで、自己の思考とそれに付随する行動のクセに「気づき」「手放し」「学び直す(リラーニング)」して、抜本的な自己内面改革となった時期でした。また、小学生以来、夢中になった読書に再燃した時期でもあります。

退職を機に、地方移住とフリーで仕事をすることになり、紆余曲折ありながらも今に至る訳ですが、地位や名誉とかめんどくさいしがらみを感じずに「学び」「遊び」が融合した「仕事」をしているなと感じます。

型にはめられた感覚や不自由さを感じたのは、小中高と会社員時代(集団に混じり同じ行動をすることがとても苦手だったせいもあるかもしれない)。

のびのびと好きなことをしながら生きることができているなと、当たり前になりつつある今ある環境を再度見直し、改めて感謝です。

幸せとはなんでしょうか。地位、名誉、資格や収入、他人と比べて背比べして生きることは、幸せなのでしょうか。

なんだか人と心が通じ合った瞬間や一人でなにかに没頭している瞬間とか、一見すると不効率なところに、突如として湧き上がるものではないのかなと思います。

取り止めのない会話とか、別に無駄ですよね。でも、その中に楽しさだったり、笑いだったりが生まれるわけで。

そんなちっぽけなことに幸せを感じるのかと、超高級料理店で美味しいお肉を頬張ることに幸せを感じる人もいるかもしれませんが、私は近くで採れた野菜などを使った手料理を顔馴染みの人たちで食べることの方に幸せを感じます。お金をかけなくても幸せって自分で見つけ出せると思います。類は友を呼ぶのかわかりませんが、そんな類の人たちを大切にしたいし、人生限られた時間を費やしたいので、広く浅い人間関係<狭く深い人間関係にしていきたいなと思っている最近です。

今回は、辻信一さん著「ナマケモノ教授のムダのてつがく」を読んだことを元に書いています。ムダって本当に無駄だったのかや、テクノロジーやお金、教育のこと、そして幸せのこと。日常の中で見落としてしまったことに気付かされる一冊です。



この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?