君は" I"をつかって会話しているかい?
Twitterを眺めていると職場で起こるトラブルをネタにしたものが多くて、「え、そんなひどい上司いるの?」と目を覆いたくなるようなストーリーもよく見かける。
Twitterだけを見ているとパワハラという言葉は、もう経験したことのない人がいないというほどオフィスの日常になっているように見えてしまう。
実際はそこまでひどくはないのかもしれないが、私も、弊社の社員の”上司”であるため、パワハラというものがどういうメカニズムで起きるのか、興味があって、ついついこういうTweetに目が言ってしまう。
パワハラという言葉が出てくる前は、ちょうど子供が就学の時期に差し掛かっていたため、日本でいじめが起きるメカニズムについて考えていたことがあり、パワハラと現代で呼ばれているものや、いじめが起きるメカニズムについて自分なりの見解を1つ持ち続けているので、それを今日は書いて見たいと思う。
日本人は"I"という人称をあまり使わない
皆さんはオフィスでの会話を思い返してみて、会話のなかに「私は、、」から始まる会話の率はどれくらいだろうか?
「私はこう思います。」「私はそう思いません。」「私はいいと思います。」
かわりに
「A部長はどう言うかな」「先方はどう思うだろう」「みんなはどう思う?」
こういう表現のほうが多かったりしないだろうか?
特に否定的な意見を言うときに「私」が使われることが少なくなっていないだろうか?
「私はそう思わないな」「私にはよくわからないです」「私はそのアイデアが好きではありません」
例えばこのようなことを率直に言ってくれる人が周りにどれくらいいるか思い浮かべてみてほしい。
私は独立する前、スウェーデンの会社と日本の会社50%ずつ出資の会社に勤めていて、一日の80%くらいを英語で業務していたので、日本語だけの会議に出ることがほとんどなかった。
ところが5年間在籍した最後の1年だけ、オール日本人のプロジェクトに入ることになり、そこではじめて日本語の会議漬けになったとき、このことに気づいたのである。
「なぜ、みんな、自分の意見を"I"(つまり”私”)を付けて話さないのだろう」
と。
"I"という人称を使わないとどうなるか
I(私)を省いて、自分の意見をいうとこうなるという例をいくつか並べてみたい。
バイアスの入った変換であるものの、これらを見てみて、「あるある」と思う人はいるのではないだろうか。そしてほとんどの人には右側の表現のほうが心にぐさっとくるのではないだろうか。
僕は右側のような言われ方をされると、自分の意見、説明、アイデアを根本的に否定された気になってしまう。
左で言われれば、「この人は反対なのか」、「このおじさんはこれではわからないのか」、「この人はこのアイデアが嫌いなのか」で、終わるところを、
右で言われてしまうと、「自分の意見が社内全体から反対をうけているのだろうか?」、「自分はコミュニケーション能力が低いのか」、「自分のアイデアは世に受け入れられないのか」と”重く”受け止めてしまいかねない。
なぜ"I"という人称を使わずに伝えようとするのか
Iを使わないと↓の2つのメリットがあることを僕たちは無意識に知っているのではないかと僕は思っている。
Iを使わないこれらの表現の究極系とでもいうべきものを僕は小学校のときに先生に言われたことがある。
当時僕は自己中心的で奔放な子供だった。ある日クラスメートと喧嘩して先生に呼び出されたとき言われたのが、
「みんながMizutoriくんのことを嫌ってるよ。」
という言葉だった。
「わたしはあなたのことが嫌い」と言わず、アンケートを取ったわけでもないのに、「みんながあなたのことを嫌い」、と、こういう表現を小学校の先生が子供に使ってしまう。
非常に残念なことだけど、僕だけじゃなく日本に生まれ育った人ならば人生で一度ぐらい似たようなことを言われたことがあるのではないだろうか?
左は先生一人から嫌われてしまった、に対し、右はクラス30人全員から嫌われているという多勢に無勢感がすごい。
先に上げたメリット1もメリット2も存分に発揮された表現となっている。
このIを使わない表現は、もともとは、相手も傷つけず(気づかせる)、自分も傷つかない(責任をとらないでいい)方法として、また無用な争いを避ける方法として日本語のなかで進化してきた表現手法かもしれないが、この手法がいつの間にか相手を強制的に動かすツールにかわり、使っている人もその自覚がなくなっているということが頻繁に起きているのではないか、それが職場で必要以上のストレスを感じている人を生み出しているのではないか、、
これが僕がTwitterを見ながら勝手に想像していることである。
"I"を使った伝え方
最後に、もう一度上の例文を、私の以前働いていたような英語の職場だったら、どうなるのかを見ていただきたい。
「私はそう思わない」 -> 「その意見は受け入れられないんじゃないか」
「私はそう思わない」 -> 「それはみんなが思っていることと違うんじゃないか」
-> I don't think so.
「私にはわからない」-> 「それではA部長につたわらないよ」
「私にはわからない」-> 「もっと相手に伝わるように努力しないと」
-> I don't understand.
「私はそのアイデアが好きではない」-> 「それは間違ってるんじゃないか」
「私はそのアイデアが好きではない」-> 「だれもそのアイデアに賛成しないだろう」
-> I don't like that idea.
「みんながXXくんのことを嫌っているよ」
-> I don't like you.
どうでしょう。
どちらがこころにぐさっとくるだろう?
Iをつかった表現の一番大きな違いはIであれば、たとえそれがI don't like youであったとしても対策が考えられることだ。「この人に関わらなければいいんだ」、「部署を移動すれば十分やっていける」、「この人が移動するまで待てばいい」とポジティブに考えることもできる。
また状況によってはなぜ嫌いなのか聞くこともできるかもしれない。
私は前職で働いている間のほとんどの期間上司はヨーロッパ人だった。どの上司も大切なことを伝えるときほど上の"I"をつかって話してくれた。上司との関係でストレスを感じたことはほとんどなかった。
たまに彼ら・彼女らもIを使わないで私を注意してくることがあった。私が本当に正さないと行けない行動をしているときなどに彼ら・彼女らはYouを使うことがある。
当時僕は製品開発の現場に政治的な要素が持ち込まれるのが嫌いで、そういうことが起きるたびに爆発し、政治的な要素を持ち込む相手に噛みつこうとしていたある意味”青い”時期があった笑。
その時上司に言われたのが、
である。
もし僕の上司が日本人だったら
「みんなが迷惑している」
そんなふうに言われていたかもしれない。
"I"を使うためには
Iを使った表現を日本社会でいうことは時として勇気がいる。とくに日本に生まれ育って「私はあなたが嫌いです」というのは、幼稚園のときの「XXちゃん、嫌い!」以降、言ったことはないのではないだろうか?
日本ではIを使った表現は幼稚、自己中心的、わがまま、傍若無人として、見られる傾向があり、先に出てきた先生のような大人たちによって矯正されてしまう。
大人になってもIを使って自分の意見をいうと、根拠のない意見を言う人、自信過剰な人、客観性のない人、自分のことしか考えてない人、という誤解を生む可能性があり、Iを使って話すことには勇気がいる。
ただ僕たちは大人になり幼稚園で「XXちゃん、嫌い!」と言っていたころからはボキャブラリーはものすごく増えている。
などのように、勇気を持って言ってみてもいいかもしれない。
部下と向き合った時、同僚、取引先、家族に向き合った時、心のなかで”I”を欠いた表現になっていないか、一度反芻してから話しかけてみると相手との関係が変わるかもしれない。是非試してみてほしい。
そうはいう僕もついつい「I」から逃げたくなるときがある、そんなとき自分に言い聞かせるためにも、ちょっと強めの文章だなと思いつつ、文字に起こしてみました。
つづく
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