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人は何者かでなければいけないのか?

先に言っておきますが、
僕はまだ何者でもありません。

昨日もここに書きましたが、
イベントを彼此8年くらい作ってるとはいえ、
まだまだそれで飯を食えるレベルにはなっていないので。

ていうか、そもそも、「何者」って誰がどういう基準で決めるんですかね?

「プロ」であれば、その職業の名前が「何者」かを示してくれるんですかね?

そうだとしたら、僕にとっての「プロ」の定義は「お金をもらっていたら」というものなので、

みんな何者かになります。

僕だってイベントでお金をもらってるのでイベントのプロだし、

工場で何かを作ってる人だってもちろん「プロ」だし、
道端で歌を歌って投げ銭をもらうミュージシャンだって「プロ」だ。

そして、その「プロ」たちは、
それぞれ、「イベンター」「サラリーマン」「ミュージシャン」という「何者か」になるんでしょうか?

僕はそうではないと思っています。

ここで大事なのは、「自分が納得した形で何者かになれてるかどうか?」って部分だと思っていて、

例えば、僕は、イベントでお金をもらっているけど、
飯が食えるほどではない。でも、趣味や遊びでやってるのではなく、死ぬ気で頑張ってるので飯を食えるようにならないと納得できない。

だから、「何者かになれていない自分」ということに自分を落ち着けます。悔しいけれど。

多分そんな人が多いんじゃないかなぁって思います。

僕からしたら、サラリーマンだって超すごいと思ってます。
僕は、サラリーマンになれる素質がなさすぎて(人の言うことを死ぬほど聞けない)、
就職を諦めた男なので、

きちんと毎月お金をもらって、
一生懸命、社会のために、誰かのために、自分のために、働ける姿はまじで尊敬してます。

すごい。凄すぎるよ。本当に。

だから、きちんとどこかに勤めてる人は僕からしたら全員「何者か」なのですが、

やっぱり、そこに満足しない人は多い。

そんな人たちを肯定するために、
「遊びまみれ」っていうイベントを毎月作ってます。

多分、サラリーマンの人たちは、
自分自身が、
自分らしく輝けてないことも受け入れなければいけない瞬間が多々あると思うんです。

もちろん、それがチームだし、それが組織なので、
そういう一人ひとりの力が重なって大きなものになっていくんでしょうけど、

やっぱり、一個人としては、そこに納得いかない人も多いと思います。

やりたくないこととか、言いたくないこととかを、やらなきゃいけないこともあるだろうし、

自分の信念を少し曲げなきゃいけないこともあると思います。

僕はそういうことをも受け入れてきちんと守りたいものを守る姿を、心の底から尊敬しています。

でも、やっぱり、それだけでは、
本当の自分が薄くなっていってしまうのも事実だと思います。

その状態は本当に尊敬しているけど、
その状態だけで生きていくのは、息苦しすぎる。

だから、あなたがあなたらしく輝ける居場所を、
「遊びまみれ」として作っているつもりです。

ここは、あなたが言いたいことを言えばいいし、
楽しみたい楽しみ方をすればいい。

積極的にガンガン発言してもいいし、
もちろんその上ですべってもいい。
(すべったらMCの僕がなんとかします!だから安心してください!とはいえ、力及ばずのことが多々あるので本当にはゴメンナサイ!笑)

大人しくみていてもいいし、

ボケてもつっこんでも笑ってるだけでも笑わなくてもいい。

目指すは、放課後の公園のような、
みんながそれぞれ輝ける遊び場。

そんな場所が、会社とは別に、
1つあるだけで、
あなたは何者かであれる気がします。

あなたのあなたらしい部分は、
僕が遊びまみれで肯定するので、

そしたら、その部分は活かしたまま、
仕事に挑むことができる。

それでようやくあなたはその仕事の人になれるのではないでしょうか?

「何者かでなければいけない。」
そんなことは1ミリもないと思います。

ていうか、あなたはすでに「何者か」であると思います。

そのことに気がつけるきっかけに、僕のイベントが役立てば嬉しいです。

そうすれば、僕も何者かになれるから。

企画構成屋 水谷駿介

遊びまみれ公式サイトはこちら

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