見出し画像

投げやりだったわたしでも


 受信トレイのいちばん奥に、お守りが入っている。鍵のマークがついたそれは、鈴木先生が職場を去るときに送ってくれた一通のメール。そのことばに涙したわたしは、いつか仕事で行き詰まったときに読みかえそうと、誤って消去してしまわないようプロテクトした。
 鈴木先生は、母性看護学という産婦人科看護のスペシャリスト。ふだんは柔和でほがらかだけれど、こと「仕事」に関しては、学生に対しても教職員に対しても、とても厳しい目で観察し、教育する先生でした。



 わたしが今と同じ「大学職員」という職についたのは22歳、新卒の春。就職活動をしていた1994年は、年末の流行語大賞で「就職氷河期」ということばが入賞した年です。当時はバブル崩壊から間もなくて、たくさんの企業が負債をかかえ経営困難となり、新規採用をひかえたり、業績悪化にともなう内定取り消しが社会問題になったりしていました。

 運よく正社員の位置づけで採用されたわたしですが、実はとても不本意な就職でした。就職を熱望していたのは別の企業だったからです。業種は楽器メーカー。大学1年生のとき、メーカー各社の人事担当者に話を聞いたうえで狙いをさだめ、その企業の通勤可能な支店で、4年間アルバイトとして働きました。3年目には「卒業後はうちで」と声をかけてもらい、最後の1年間は週4日の営業補助として、取引先との商談に同行させてもらったり、新製品発表会でひとつのブースをまかされたりしていました。
 そこへ、容赦ない氷河期の到来です。本社から業績不振により次年度の新規採用予定は0名との発表があり、同業他社も採用見送りとなっていました。紆余曲折を経て、わたしは保険代わりに採用試験を受けていた数社のひとつ、私立短大の大学職員として働くことになりました。

 楽器メーカーの営業職として、音楽表現の幅を大きく広げてくれる商品の魅力を伝え、ひろめていくことを夢見て4年間準備してきたにも関わらず、対極にあるような事務職員になる。
 それは、消去法のすえ選ばざるを得なかった「失意の就職」でした。もちろん、就職できただけラッキーだったことは承知のうえですが。
 傲慢にも一時はふてくされ、「事務なんて」と投げやりな気持ちになったけれど、春が近づくにつれて、PCでのビジネス文書の作成や表計算ソフトの勉強を重ねつつ、自分なりの就職準備を進めることで、気持ちをシフトしていきました。



 就職した1995年は、Windows95の発売により、それまで手書きやワープロで行われていた事務作業のデジタル化が急激に進みはじめた年でもあります。事前準備が役に立ち、わたしは入職半年後から教務・学生系のありとあらゆるデータのデジタル化推進の担当となりました。
 そこから情報処理、とりわけデータベースの仕組みを学んで資格を取りつつ、市販のデータベースソフトを使って、教員と協働しながら学内のデータフローを整理していきました。たとえば、手書きだった入試の受験生名簿と入学願書をデータベース化し、そこから入学者の情報を読みこんで学生データベースを作り、履修情報や成績などをひも付けて、成績証明書や卒業見込証明書などの帳票を発行したり、卒業後は同窓会データベースへとつなげていくという具合です。現在では便利な教務システムのパッケージ商品がたくさん販売されていますが、当時は自前でデジタル化を進めていく大学が多かった印象があります。

 教学担当の職員として学生の教育に関わりながら学内の事務作業の効率化を進めていくうちに、仕事はどんどん面白くなっていきます。課題を見つけ、情報処理のプロセスを工夫し、関係各所と相談しながら新たな方法を提案し、その仕事に関わる職員が必要最低限の情報にアクセスできるよう権限設定してテストを重ね、うまく行けば誰でも使えるように標準化していく。そのプロセスにより、周囲の教職員の事務作業に取られる時間が大幅に減っていくのが、目に見えてわかったからです。

 自分の仕事が「誰かのよろこび」につながる。そう感じられたことは、わたしにとって大きなモチベーションとなりました。ろくな志望動機などなかった就職だったけれど、面白さとやりがいを見つけたことで、仕事はぐんと楽しくなったのです。

 数年後、出産をひかえたわたしはその短大を退職しました。産休・育休を取りながらキャリアアップしていくという女性の働きかたは、当時の職場ではまだ一般的ではなく、教員の産休は認められても職員の制度利用は慣例的に認められていませんでした。



 こども達が幼いうちは在宅やパートで働いたりしていましたが、下の子が中学生になるのをきっかけに、わたしは正規雇用での再就職を目指しました。
 学生時代の就職活動とはちがって、もう夢は追いません。行きたい業種はもちろん、企業規模も気にしませんでした。ハローワークの求人票を見るとき、何よりも大切に考えたのは「こども達になにかが起きたとき、すぐに家に帰れる距離」であること。つまり、職住近接です。夫や両親からの家事・育児協力が得られる環境ではなかったので、出産前のように往復2時間を通勤にあてるわけにはいきません。車で15分以内を最優先条件にしようと決めました。

 ちいさな町工場の営業事務を7ヶ月、そしてスーツ量販店の販売員を3日間やりましたが、どちらも「定年まで働き、そこへ骨をうずめる自分」が想像できなくて、退職。三度目のハローワークで見つけたのは、自宅から車で10分とかからない場所にある私立大学でした。

 求人票をハローワークの面談カウンターに持っていったとき、わたしは言いました。

「採用条件に35歳以下と書いてありますけど、わたし42歳なんです。でも、経験者なんです。応募してもいいか、人事のかたに聞いてみてもらえませんか?」

 窓口のおじさんは「ちょっと待っててね。聞いてあげるから」とにこやかに言い、その場で人事担当者へ電話をかけました。

「とにかく書類送ってくださいってことだったから、応募書類をそろえて郵送してくださいね。ここね、履歴書と職務経歴書。でもね、募集1名だけど、うちからこの大学に紹介したの、あなたで38人目。だからね、たぶんダメだと思うよ」

 さらっと倍率の高さを突きつけられて、面談は終わりました。


 帰宅してすぐに、職務経歴書の作成に取りかかります。一次は書類審査、二次は面接です。それまでの転職ですでに作成した職務経歴書がありましたが、そのままでは心もとありません。それまでに経験した業務のうち、企業に転職するためには不要だった大学事務での細かい業務内容が、今回の書類選考では「経験あり」として武器になるはず。だから、業務内容のボリュームを大幅に変更し、より具体的な内容に落としこんで書き直します。どこから質問がきても答えられるよう、面接官の質問内容を想定しながら書類を準備しました。


 書類選考を通過したと連絡が来たのは、7月の終わり。連日35℃に達しそうな暑い暑い夏でした。翌週の面接に何を着ていこうか、とても迷います。手持ちは黒いパンツスーツしかありません。 
 困ったわたしは、企業での採用担当経験のある友人のおとちゃんに相談しました。黒いパンツスーツのほか、ありったけのブラウスやパンツをかきあつめて、おとちゃん宅で作戦会議です。着たり脱いだり着たり脱いだり、おとちゃんの服を借りてみたりしたのですが、全然しっくりきません。
 なんてったって、蒸し暑くて殺人的な日本の真夏です。クールビズ推奨のこの時期、汗をだらだら流しながら椅子に座る黒スーツのおばちゃんは、いくらきちんとして見えたとしても、きっと体感温度を5℃、体感湿度を50%くらい上げてしまうに違いありません。いるだけで不快指数MAXです。かと言って、ブラウスにパンツ姿だと、勤務するには良くても、応募者としてはカジュアルに見えるかも。

 散々悩んだ結果、スーツを新調することにしました。おとちゃんに付き合ってもらい、選んだのは明るいグレーのパンツスーツ。色が明るくなるだけで、ぐっと涼しげに見えるから不思議です。

 当日は、車のなかで直前まで保冷剤で首や脇を冷やし、できるだけ汗をかかないようにして面接へ臨みました。



 こうして、出産・育児やつまみ食いのような就労経験を経て、わたしは再び同じ職業につきました。今も働くその大学では以前と同じ教学系の仕事をしていますが、何もかもがデジタル化されている現代、業務内容は以前とは大きく異なります。

 教員と協働しながら新しいカリキュラムを作ったり、時間割を作成したり、シラバスという授業計画の作成を教員に依頼して取りまとめて点検したり、学生の履修や休学・退学の相談にのったり、教員の授業準備のサポートをしたり、授業と試験や成績に関わること全般がわたしの仕事です。おかげで、以前の職場よりもずっと学生や教員と関わる時間が増えました。仕事の7割がたは連絡・調整・相談で、7年勤めた今では学内で学べる授業内容や科目間のつながりについては誰よりもくわしいと自負しています。


 事務とはいえど、特殊な内容をあつかうことの多い大学職員。でも、仕事の基本はきっと同じです。面接で「仕事でいちばん大切にしていること」を問われたとき、こう答えたのを覚えています。

「その仕事を受けとる誰かのために、“すばやく・正確に・ていねいに”を心がけています」

 今でもずっと変わらない、わたしの仕事のモットーです。



 プロテクトして受信トレイに残してある、鈴木先生からのメール。その長い長いメールのなかに、こんな文章がありました。


水野さんが着任されて、すぐのころでした。
私が市役所に提出する書類の最終確認で、たまたま水野さんにダブルチェックをお願いしたことがあったんですよ。ダブルチェックを済ませたあと、控えのコピーを取っていただいた流れで、水野さんがサッとその提出する書類をクリアファイルにはさんでくださったんです。もう私、それで、水野さんにイチコロでした。

水野さんにとっては当たり前のことで、ひょっとしたら覚えていらっしゃらないかも。でも、私はその時「この人、プロだ」と思ったんです。


 先生のことばのとおり、わたしは覚えていませんでした。きっと、わたしにとっては「当たり前の行為」だからです。鈴木先生が市役所へ提出する書類であれば、おそらく実習の依頼文書だったはず。持ち歩くあいだに、先方へお届けする書類が万が一にも折れ曲がったり、濡れたり、汚れるなんてことがあってはならない。だから特に頼まれなくても、クリアファイルに入れてから先生に渡したのでしょう。

 何年も前の、取るに足らないそんな行為を鈴木先生は覚えていて、職場を離れるときにメールで伝えてくださいました。

 新卒当時「事務なんて」と投げやりだったわたしでも、20年の時を経て、あの鈴木先生に認めてもらえるような働き手になれていたなんて・・・。うれしさがこみ上げるのと同時に、居住まいを正すような心持ちになりました。

「ただの事務のプロとしてではなく、大学教務をもっともっと学んで、プロとしてこの仕事を極めよう」
 そう思ったわたしは、県内外の教務研修会などにもそれまで以上に積極的に参加するようになり、この仕事の奥深さと面白さを改めて知っていくことになるのです。



 新卒で就職した短大は、消去法だから職場を選んだとはとても言えません。そして、今の職場は「家から近くて、経験があるから」というだけの理由でした。この仕事を選んだ理由なんて「ない」に等しい。
 でも、それでいい。それでいいと思うのです。

 理由なんか、なくてもいい。理由が見つからなくたって、真摯に仕事と向き合っていきさえすれば、仕事を通して誰かの役に立つことがあるからです。
 誰かの役に立ったと知ったとき、自分の仕事に自信が生まれます。
 その仕事を好きになります。
 次なる目標が芽生えます。


 だから、わたしは働きつづけるのです。
 この仕事を選んだことに説明できるほどの理由なんてないけれど、胸を張って。




==2022.3.13 追記=====

 このエッセイが Panasonic ✕ note 主催「#この仕事を選んだわけ コンテスト」において、審査員特別賞をいただきました。あたたかい講評をいただき、多くの素晴らしい作品とともにご紹介いただけて、うれしいです!
 読んでくださったみなさま、シェアやコメントやおすすめをしてくださったみなさま、ありがとうございます!


この記事が受賞したコンテスト

ここまで読んでくれたんですね! ありがとう!