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vol.1 台湾マンゴーと熱い思い

 夏の台湾は、燃えるように赤いマンゴー色だ。

 太陽の日を燦燦と浴びて育った真っ赤な愛文マンゴーが、果物屋の店先に山のように積まれている。安価だが、濃厚な甘さと瑞々しさが口の中に広がり、その心地よさにうっとりする。そのあまりの美味しさに、種の周りにこびりついている僅かな実も逃したくない気持ちにかられる。

 台所で人目を忍んで種にかぶりついたはずだが、次の日、頬が赤くかぶれてしまい、マンゴーにかぶりついたことがばれ何度となく恥ずかしい思いをした。
 そう、マンゴーは漆科の果物なのである。

 台湾の選挙は、燃えるように熱い闘志を燃やす。

 その理由は台湾の歴史にある。台湾(中華民国)は、日本統治時代の後、戦後長らく国民党一党の独裁政治であり、多くの民衆は弾圧されていた。2000年の総統選で台湾の歴史上初となる野党(民進党)が政権を獲得したのである。

 台湾には、台湾に昔から住んでいる先住民(原住民)、第二次世界大戦以前より台湾に住んでいた台湾人(本省人)、戦後に国民党政府と共に中国より移り住んできた台湾人(外省人)がいるので、どのように政治を行っていくかが、とても切実で重要な問題なのである。

 20年前の2004年の総統選挙では、前回の総統選で敗れた国民党に中国共産党が接近し、選挙は更に白熱していた。色鮮やかなのぼりが街中に幾重にも重なり、候補者を応援する太鼓や爆竹が鳴り響いていた。誰も応援する党をもち、熱い気持ちをもっていた。

「タクシーで選挙の話をしてはいけないよ」

と、台湾人の友人から忠告された。台湾人が選挙の話を始めると止まらなくなり、喧嘩になることもあるからだ。立候補補者は、オープンカーで台湾中を廻り、集会となると、何千人もの支持者が集まった。もちろん、屋台も集結し、飲食だけでなく、バッジや旗といった選挙グッズも売られる。いろいろな所で爆竹がパンパンと鳴り響き、祭りごとのように盛り上がる民衆のエネルギーが台湾の街を熱い台湾マンゴー色に染めていた。

 2004年2月28日、台湾に住んでいた私は、大家さんからの誘いで、「人間の鎖」というデモ活動に参加した。
 その当時、中国共産党は、台湾を独立させないためにも、国民党に政権を取り戻させるために、様々な嫌がらせを行ってきた。台湾に弾道ミサイルを撃ち込むのではないかという噂もあった。そこで、台湾の北から南までの約490キロに渡って、人々が手を繋ぎ、中国の弾道ミサイルから台湾を守ろうと訴えたのが「人間の鎖」である。

 デモというと、日本では少し怖いイメージがあるが、台湾のデモは、親戚の集まりのような温かさがあった。みんなで、借り上げバスに乗り、担当の地点まで移動したのだが、途中で、バス後部の座席から煙が立ち上がるというハプニングもあり、2月なのに汗をかいたのを覚えている。

 当時は、日本人がデモに参加することが珍しかったので、「yes!台湾 日本人応援隊」といプラカードを持たされ、人が通るたび大家さんの母親に
「この子たちは、日本人なのよ」
と、嬉しそうに、誇らしげに紹介された。

 大家さんの母親は、日本統治時代に学生だったので、日本語が流暢なだけでなく、礼儀正しい美しい日本語を話していた。
 台湾の日本統治時代は、1895年から1945年とおよそ半世紀に及び、日本本土と同様に教育を重視した。現在の台湾大学(台北帝国大学)も1928年に設立している。日本統治時代の終わりには、一般児童の就学率は7割を超えていたと言われている。台湾内では、日本語がひとつの共通語として話されていた。
 大家さんの母親は、懐かしそうに日本統治時代の学校の先生の話を幾度も話してくれた。日本の先生はいつもきちんとしていて厳しいけれども、個別に丁寧に勉強を教えてくれたこと、戦争が終わって、先生が日本に戻る時の別れが寂しかったことなど、昨日のことのように覚えていると言っていた。戦後60年たった今でも、
「日本の先生を訪ねて日本に行き、みんなで集まることがあるのよ。とても楽しいの。」
と、女学生の顔に戻って話す姿に驚いた。

 日本の先生と台湾の生徒の繋がりが「人間の鎖」のように固く結ばれていた。

 20年前の台湾には、この大家さんの母親のように日本語を流暢に話せるお年寄りがたくさんいた。言葉が通じず困った時には、どこからもなく流暢な日本語を話すお年寄りが出てきて、中国語を話せない日本人を助けてくれた。困っている人を助けるのは当たり前という気持ちが何より嬉しかった。

 日本統治時代は、台湾人に対する差別もあり、日本人に対する印象は人によって違うと思うが、私が台湾で出会ったお年寄りの方々は、皆、日本語を話したがり、日本統治時代の学校生活を嬉しそうに話してくれた。日本の先生はいつもきちんとしていて厳しかったけど、真面目で優しかったという印象が大半だった。
 そして、日本人の先生から教わった日本人としての心(道徳心)を大切だと考え、年月を超えて、その心を実践していた。

 さて、20数年前の日本に戻ると、日本の学校教育が大きく変わり始めた頃である。
 公教育にも民営化の波が押し寄せてきて、民間人の校長登用、教員の人事評価制による給与や保護者からのアンケートの導入がされるようになった。
民間企業のやり方を学校に取り入れれば、教育が良くなるという考えだったようだ。トップダウンで上からの指示に素直に従う教員こそが優秀であり、教育の質が向上するという幻想が学校現場に少しずつ暗い影を落とし始めていた。

 この民営化政策により、教員のチームワークや若手や不器用な教員もみんなで支えていく雰囲気は徐々に失われていった。保護者は学校アンケートによりお客さま目線になり、モンスターペアレンツが出没するようになった。何のために教育を行うのかという教育哲学をもった教員は必要とされなくなり、管理職や保護者からの評価を気にして行動する教員が増えたのである。それがストレス過多な働き方となり、今の学校の現場のブラック化に繋がっていると思われる。

 昔の教員は、児童生徒のためであれば、時間外の労働を苦と思わず、児童生徒が立派に成長していくことに教員のやりがいを感じていた。
 私は、肢体不自由養護学校の教員だったので、休日を返上して、車椅子では行けない買い物やスキーなどに生徒を連れて行っていた。それを私自身、苦と思わなかったし、公私混同と咎められることもなかった。生徒が新しい経験を積み成長していくことが素直に嬉しかった。

 おそらく、日本統治時代の日本人の先生達も、人種に関係なく熱心に勉強する子ども達の成長のために、苦労を惜しまなかったと思われる。
 そういう教師魂が、人を育てたのだろうと思う。心のなかに真っ赤な熱い思いが溢れていたのであろう。


★著者プロフィール★
港区出身。和菓子屋の三姉妹の三女として育つ。
千葉大学教育学部、早稲田大学教職大学院卒。
特別支援学校教諭、日本語学級教諭を経て現在小学校教諭。
2001年から3年間、夫の仕事の関係で、駐在妻として台湾在住。

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