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連載日本史90 鎌倉幕府の衰亡(3)

1333年、後醍醐天皇は配流先の隠岐を脱出、伯耆(鳥取)で、名和長年の助力を得て再び挙兵する。幕府は追討軍を派遣するが、その主力であった足利尊氏が丹波篠山で後醍醐方に寝返り、京へ攻め上って六波羅探題を攻略する。一方、源氏の末裔でありながら幕府から冷遇されていた新田義貞も、この機に乗じて上野(群馬)で挙兵、鎌倉へと攻め上った。得宗北条高時はじめ北条一族は追い詰められて鎌倉東勝寺で自害、頼朝以来140年以上続いた、日本初の武家政権である鎌倉幕府は、ここに滅亡したのである。

新田義貞の鎌倉攻め(kamakura-burabura.comより)

強大な軍事力を誇った鎌倉政権は、なぜ滅んだのだろう? ひとつには蒙古襲来(元寇)以来の経済的窮乏や社会不安が要因として挙げられるが、それだけが原因ではあるまい。幕府内の相次ぐ内紛や朝廷工作の失敗なども政権の寿命を縮めたと思われるが、最大の原因は政権自体の腐敗によって内外の信頼を失ったことであろう。幕府軍の中核であった足利尊氏の離反が、それを端的に物語っている。誰だって、信頼できない政権のために、命を懸けて戦いたくはないだろう。

分倍河原駅前の新田義貞像(Wikipediaより)

古代中国の思想家で、儒家の祖として名高い孔子は、政治にとって大切なものは何か、と弟子に問われて、「食」「兵」「信」の三つを挙げている。経済と安全保障と信頼というわけだ。そこで弟子は、三つのうちどれかを諦めなければならないならば何を捨てるか、と重ねて尋ねる。孔子は、「兵(安全保障)」と答えた。さらに弟子が、残った二つのうちどちらかを諦めなければならないならどちらを捨てるか、と尋ねると、孔子は迷わず「食(経済)」と答えたという。政治にとって最も大切なのは、安全保障や経済よりも信頼なのだ、と断言したのだ。

この逸話は、道徳に最大の価値を置く孔子の理想主義を示すものとして有名なエピソードだが、考えてみれば、軍備がいかに充実していたとしても経済が破綻してしまえば守るべき国自体が崩壊してしまうのは当然のことだし、信用が失われれば経済そのものが成り立たないのも自明である。安全保障や経済よりも信頼の価値を重視した孔子の示した優先順位は、実利的観点からも合理性に富んでいたと思われるのだ。最強の軍事力を誇った鎌倉幕府が滅んだ最大の原因は、信を失ったことに尽きるのではないだろうか。




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