見出し画像

インドシナ半島史⑧ ~アユタヤ朝~

1351年に建国されたタイ人の王朝であるアユタヤ朝は、チャオプラヤ下流域からバンコク湾・南シナ海・ベンガル湾などを通じて、インドや中国とも広く交易を行った港市国家であった。輸出品は米・獣皮・象牙・綿糸・香辛料など多岐にわたり、交易の利益と軍事力で徐々に勢力圏を広げ、1432年にはアンコール朝カンボジアへ侵攻し、さらに1438年には北方のスコータイ朝を併合した。この時の侵攻でアンコール朝は大打撃を受け、首都アンコールを放棄してプノンペンに移る。やがてアンコールの巨大寺院群は荒廃し、密林に埋もれていくのである。

アユタヤ朝は他のインドシナ諸国と同様に上座部仏教を保護したため、首都のアユタヤをはじめ、各地に仏教寺院が建設された。16世紀半ばにはビルマに興ったトゥングー朝の侵攻を受け、一時はトゥングー朝の支配下に置かれたが、16世紀後半には独立を回復し、逆にビルマへと侵攻した。折から始まった大航海時代が、港市国家であるアユタヤ朝への追い風になった。ポルトガルを皮切りに、17世紀にはオランダ・フランスとも交易を始め、首都アユタヤは国際貿易の一大中心地となった。日本との朱印船貿易も盛んとなり、日本人の居住地区である日本町も建設された。当時のアユタヤの地図を見ると、複雑に張り巡らされた水路を境界線として、中国人居留区・日本町・コーチシナ(交祉)人居留区・オランダ東インド会社商館・ポルトガル人居留区・マレー人居留区・モン人居留区などが混在し、一大国際都市の様相を呈している。

アユタヤの日本町で頭角を現し、ソンタム王の信任を得て政府高官にまで上りつめたのが山田長政である。だが彼は、王の死後、後継争いの内紛で毒殺された。それからまもなく、江戸幕府の鎖国政策で、タイと日本の交易は途絶える。一方、アユタヤ朝とフランスとの交易は更に活発となり、1680年代にはルイ14世の宮廷に使節が派遣されている。香辛料をはじめとして、東西の交易には遠隔地の価格差を利用した莫大な利益が見込まれたため、欧州の絶対主義諸国はこぞって重商主義政策を採用したのである。

18世紀に入ると、こうした欧州諸国の対外拡張政策を警戒したアユタヤ朝は鎖国政策に傾くようになる。しかしそれは、もともと港市国家であったアユタヤ朝の経済基盤を弱体化させる結果にもなった。やがて1752年にビルマを統一したコンパウン朝の侵攻によって、1767年、アユタヤ朝は滅び、首都アユタヤは徹底的に破壊された。古都アユタヤに今も残る、頭部を失った多くの仏像は、この時のビルマ軍の侵攻によるものである。トゥングー朝ビルマも、隣国のアユタヤ朝タイと同様に、上座部仏教を奉じていたはずだが、それは侵攻を止めるブレーキとはなり得ず、むしろ近親憎悪的な感情を煽ったのではないかとも推測される。近いからこそ、似ているからこそ、かえって募る憎悪。無残に破壊された首のない仏像群は、隣国関係の難しさを哀しげに物語っているようにも見える。

いいなと思ったら応援しよう!