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連載日本史192 自由民権運動(2)

明治十四年(1881年)の政変の背景には、国会開設と憲法制定を巡る伊藤・大隈の対立と並んで、財政を巡る大隈と松方正義の対立があった。1873年から1880年まで大蔵卿を務めた大隈は、官営事業を推進し、西南戦争の戦費を賄うために、国立銀行条例を改正して正貨兌換義務を廃止し、不換紙幣を増発した。このため激しいインフレが起こったが、殖産興業を優先する大隈は積極財政の姿勢を改めず、後継の大蔵卿となった佐野常民も大隈の方針を継承した。伊藤・松方は、そうした大隈派の財政政策についても、大きな危惧を抱いていたと思われる。

松方正義(Wikipediaより)

開拓使官有物払下げ事件の処理に当たって、伊藤らは払下げを中止し、国会開設の勅諭を得て十年後の国会開設を約す一方で、大隈と彼に与する福沢諭吉門下の官僚たちを政権内から追放し、松方正義を大蔵卿に任命した。民権運動と財政の両面で、大隈の影響を排除しようとしたのだ。

新たに大蔵卿となった松方は大隈とは反対の緊縮財政政策をとり、醤油税・菓子税の新設、酒税・煙草税の増税などによって歳入の増加を図るとともに、行政費を削減し、官業の払下げを促進して歳出の削減を進めた。また、不換紙幣の回収と整理を進め、1882年に日本銀行を設立して紙幣発行権の一本化を図った。翌年には国立銀行券の発行停止、1885年には銀兌換紙幣としての日本銀行券を発行し、銀本位制を実現した。兌換制度の確立によって紙幣流通量は減少し、通貨価値は安定したが、その影響で激しいデフレが起こった。米価や生糸の価格は著しく下落し、農村は深刻な不況に見舞われた。中間層の自作農が没落し、寄生地主層と小作人層への階層分化が進み、貧富の差は更に拡大した。一方で、農村から都市へ流出した労働力と、払下げによって生産手段を得た民間資本の成長によって、労働と資本の両側面から資本主義化が促進された。

大隈財政から松方財政へ(「山川 詳説日本史図録」より)

大隈財政と松方財政の対比は、積極財政・インフレ指向と緊縮財政・デフレ指向の好対照であると言える。貨幣制度においても、不換制度と兌換制度の好対照であると言えるだろう。いずれが正しいと言うわけではない。経済政策においては、どちらの要素も大切なものであり、そのバランスと切り替えのタイミングが重要なのだ。明治十四年の政変による財政政策の転換がタイミングとしてベストであったかどうかは賛否の分かれるところであろうが、いつまでも積極財政を続けていくわけにはいかないことは自明であり、どこかで切り替えを必要としていたのは確かだろう。松方財政によるデフレ不況で困窮した農民層は自由民権運動に加わり、運動は過激化していく。経済と政治は、やはり密接に結びついているのである。

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