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創作における「オリジナル」と「コピー(受け売り)」の問題

少し前になってしまったが、前回の続きである。(前回を読んでいない方は、合わせて読んでいただきたい)

先日、同じ文筆業を営む友人と「受け売り」について議論していた。

議論が白熱する中、「表現者の端くれであっても、やはりオリジナルを追究しないといけない」と、頑なに考える私に、友人はこう放った。

うーむ、「受け売り」じゃダメなの?「受け売り」でもいいじゃん*。

「えっ?!」あまりの驚きに絶句。予想だにしないことを言われるもんだから、私の固定観念がガタガタと崩れ始めた。

誤解されたくないので、あらかじめ断っておくと、友人は決して「剽窃やパクリをしてもいい**」と言ったわけではない。友人には友人なりの考えがあって、そう伝えてきたのだ。

この出来事をもとに、今回は創作における「オリジナル」と「コピー」の問題について考えていきたい。

「オリジナル神話」に侵されている

冒頭のとおり、「オリジナルを追究したい」私に、友人は「受け売りでもいいじゃないか」と、あまりにも真逆のことを伝えてきた。

「なぜ?」と私が聞くと、友人はこう答えた。

みんなどこかで「オリジナル神話」の病に侵されているんだよ。

この言葉に、ハッとさせられた。

何かを生み出すのであれば、何かを創り出すのであれば、独創性あふれる作品にしたい。まだ誰も見たことない、経験したことない、まったく新しい作品を…。

確かにそう思っていた。

そうすることが、表現者やクリエイターというもんなんじゃないかってね。

しかし、いまとなっては、私自身「オリジナル神話」に囚われていたことがわかる。なぜなら、次のような結論に至ったからだ。

組み合わせによってできる「オリジナル」

考えてみればよくわかるが、「オリジナル」と「コピー」の境界線は、実にあいまいなものだ。

何をもって「オリジナル」と言えるのか。そもそも「独創的(オリジナル)」なんてものが、この世にあるのか。このような問いが浮かび上がってくる。

色々考えてはみたが、さしあたり、私たちが信じている「(独創的という意味での)オリジナル」は、何かと何かの組み合わせでしかないのだと思う。

多くの人の必需品であるスマートフォンも、ガラケーがあったからこそ、現代に生まれ、自動車も馬車があったために発明された。それ以外の発明品も、元となる商品があったからこそ、前よりバージョンアップし、進歩してきたわけだ。

アニメやマンガ、デザインなどで、一部の作品にパクリ疑惑が出てしまうことは、致し方ないことだと思う。

作者がパクリをまったく意図していなかったとしても、新しい創作をする際に、作者のこれまでのアート鑑賞の経験(本来、アート鑑賞の経験に留まらないのだが)が、無意識的に反映されてしまっているケースがあるからだ。

ただこのようにいうと、他者の作品をまったく鑑賞せず、自分自身に起こった経験だけを重視し、自分の内的世界に閉じこもって作品を創った場合、それは独創的(オリジナル)になりえないのか、と反論があるだろう。

しかし、そんなに簡単な話にもならない。


***


かの有名な精神分析家のフロイトは、私たちの「こころ」の構造を、「エス」・「自我」・「超自我」の3つに分類して考えていた。

そのうちの「超自我」というものは、「〇〇したい」という自分の欲望に対して、抑制や禁止的な役割を果たす。子どもから成長していく過程で、親や教師など、まわりの他者の規範・価値観を内面化していくことで出来上がっていくとされる。

このように考えると、私たち自身のなかにも、すでに他者という名のコピーが内側に入り込んでいることがわかる。

いっぽうで、フロイトの元弟子であった精神分析家のラカンは、もう少し過激なことを述べている。誤解を恐れずまとめれば、以下のとおりだ。

そもそも私たちは、生まれたときから親など他者を無自覚的にマネして成長していくのだから、私たち自身に主体(一般的に考えられる、人の本質・根本)があるという考え自体が誤っている。

このフロイト・ラカンの考えを踏まえれば、多かれ少なかれ、私たちはみな他者というコピーを内包しているということになる。

だとするならば、先ほどの話に戻ると、いくら自分の内的世界に閉じこもり、創作活動にあたったとしても、私たち自身はコピー(他者)から出来上がっているため、完全なるオリジナル(独創的)にはなりえないという結論に至るのだ。

それならすべてが「コピー」なのか?

だとするならば、また新たな疑問が生じてくる。「それじゃあ、すべてがコピーなのか?」という問いだ。

「すべてはコピーで、オリジナル(独創的)なものなどない」と答えられれば、それは簡単だ。

だが、私はこの問いに「NO」と答えたい。


***


通常であれば、私たちは「オリジナル=独創的な」という方程式を持っている。そして、その通りだと信じて疑わない。

しかし、今回は「オリジナル」という言葉の語源を探ることによって、「オリジナル=独創的な」というステレオタイプに揺らぎを与えたい。

「オリジナル」という言葉は、英語で言うとoriginalだが、もともとはoriginから派生した語である。

originには「起源・発祥・根源・原点」などの意味があり、そこからoriginalが「起源の・最初の・根源の」という意味の形容詞になることは容易に想像できる。

さらに転じて「独創的な・新奇な」という意味にもなるわけだ。

このように語源をたどると、もともと「オリジナル(original)」は2つの意味があると考えられる。

オリジナル(original) = 起源の / 独創的な

話が少し逸れるが、「社会構築主義(social constructivism)」という考え方がある。20世紀後半に、哲学や社会学などで盛んに議論された考え方だが、「事実や現実は、そのつど生成されると考える立場」のことをいう。

この立場を借りて考えるならば、表現者が創作する作品は、たとえそれが独創的でなかったとしても、「そのつど創られた、起源がある」という意味で、「オリジナル」であると言えるのではなかろうか。

この意味で、友人の「オリジナル神話に侵されている」という部分とリンクする。私たち表現者は、創作するのであれば(私自身も含めて)、独創的(オリジナル)でなければならないという強迫観念にかられすぎているのだ。

だからこそ、表現者が抱えるプレッシャーから解放されるためにも、「1つ1つの作品は、1回1回生まれたという意味で、オリジナル(起源的)なのだ」と主張したい。

「オリジナル(起源的)」と「受け売り」の違い

とはいうものの、いまだ問題は残る。

「1回1回がオリジナルだとしたら、それがコピーや受け売りだった場合も、オリジナルになるってこと?」

「1回1回のそのつどがオリジナルなのであれば、反対にコピーのものは、なくなるってこと?」など、色んな声が挙がるだろう。

前提として答えておきたいのは、私は「受け売り=コピー」であると考えている。ここでの「受け売り」とは、人から得た情報や知識を、リソースを明かさず、さも自分が発祥であるかのようにそのまま伝えることを言う。

この状態は、ただの情報や知識の横流し・垂れ流しであり、思考停止が起こっている。これは創作でもなんでもないわけで、オリジナル(起源的)にはなりえないし、なりえるはずがない。

ただ、他者から得た情報や知識を(たとえそれが受け売り的に見えたり、聞こえたりしてしまっても)、なにかしら自分なりに編集したり、アレンジしたり、自分の考えや経験が追加したりされているならば、私はそれもオリジナル(起源的)であるといえると考えている。

非常に残念な言い方かもしれないが、「私たちが信じている「(独創的という意味での)オリジナルは、なにかとなにかの組み合わせでしかない。」

だとするならば、他者から得た情報や知識を、私たちが「なにと組み合わせるか」が重要なのだ。なにと組み合わせるかは、他でもないあなた次第であり、あなたのフィルターなり、色眼鏡なりを通すしかないのだ。

このように、他者から得たものを用いて、自分なりに編集・アレンジ・追加することによって、その作品はオリジナル(起源的)になるとともに、社会や文化のコンテクスト(文脈)とマッチしたとき、オリジナル(独創的)であると評価されるのであろう。

まとめ:創作のおける「オリジナル」と「コピー」

最後に、これまで触れられなかったことについて、少し触れておきたい。

前回の記事でも書いたが、世の中には、既視感や既聴感のある作品や創作物にあふれているといっても過言ではない。この記事でさえも、そのひとつでしかない。

ただ、もし仮に既視感や既聴感のあるような、焼き増しされた作品や創作物であったとしても、「過去に鑑賞・経験した作品」と「いま既視感や既聴感のある作品」では、同一のものではない限り、かならず差異があるはずだ。

それは、作品そのものだけでなく、その作品をとりまく環境や文脈が異なっているということだ。

何年も前に、似たような商品を発売したときは、世間からまったく反応されなかったのに、いまになってライバル社の類似商品が爆発的にウケるということが、実際にありうるのだ。

ゴッホの作品も、生前はほとんど評価されなかったが、死後になって大いに評価されたことは言うまでもない。

このように、作品をどのコンテクスト(文脈)に置くかによって、まわりからの評価が変わってくるということだ。

この意味において、私は「なにかとなにかを組み合わせた作品(一般的に完全には独創的ではないと思われてしまう作品)」が、必ずしも悪いものとは言えないと考えている。

むしろ、これまでなかった組み合わせを生み出すという点において、オリジナル(独創的)になりうるのだと思う。


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*友人のこの発言は、「リソースなしの情報の垂れ流しはダメなの?」という意味では決してありません。とくに研究においては、先行研究というものがあるように、敬意を表して「受け売り」にならざるをえない部分があります(そういう場合は、厳密には「受け売り」とは言わないと思うのですが…)。もちろん「受け売り」の捉え方も、ひとそれぞれですが、この部分だけ切り取られると、誤解を与えかねないので、注釈を入れております。

**剽窃やパクリは、創作においてナンセンスであり、NGです。決して行わないでください。


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