思木町6‐17‐4(8)


 北向き、非常階段と共用廊下における狩猟採集生活 

「雨が降りそうですな。空気が弛んできました」オーキナはそう言うと、ひと呼吸置いて、水を飲んだ。わたしたち三人の前にはコップくらいの土の器が置かれ、そこにはセレンが汲んだ水が入っていた。
「まずは、遠回りになるかも知れませぬが、わしらの暮らしぶりを話したほうが良いと思いまする」
 わたしはオーキナの顔の皺を見た。
「ウチでは、季節を問わず実が採れまする。昨日、カツミが差し上げたと思いますが――」
「わたしも今日あげたわ」セレンが言葉を挟んだ。
「まあ、種種のクノモノが採れます。今日もモたちが集めたでしょう。サンナサンは昨日見ましたかな。ゴカイの下は実の生る木に囲まれていたでしょう。少し壁をよじ登れば、造作もなく取ることが出来まする」
 わたしは、昨日の、あの黄色い扉の部屋から出てきたときの景色を思い浮かべた。緑の廊下の塀に沿って、ずらりと赤い実が生っていた。塀をよじ登るまでもなく、手を伸ばせば届きそうだった――そうか、でもこの人たちの身長だと、ちょっと難しいかもしれない。わたしが考えを巡らせているとオーキナは続けた。
「さらにニカイまで下りますと、オイイが沢山生えております。わしらはそれを年に三回取り、月の三度満ちるまで干します。そして、それをキギで搗き砕いて、はたき、粉にして食べまする――」
「いま食べたヤキジトもオイイで出来ているわ」
「そうじゃな、トギを炙ったものじゃから」
 わたしは、昨日食べた白いでんぷん状のものが、囲炉裏の灰の上で焼かれていくのを想像した。そしてそれが、おそらくマンションの二階の廊下で――幾夜ともなく月明かりを受けて育った、麦のようなものから出来ているのを考えた。
「そして……オたちはミヨウヤを獲りに出かけまする」
「今、三奈が食べたヤキジトのなかの肉がミヨウヤの肉よ」セレンは、わたしの前にあるヤキジトを包んでいた葉っぱを指差した。
「どういう動物なの」
「そうですな……」オーキナは黙ってしまった――頭に手をやり、わたしに分かるように、言葉を探してくれているらしい。
「……鳥のように翼もなく、わしらのように二本足で歩くのでもなし、沈む陽のような長い毛が身体じゅうを覆い、四つの足で素早く動き回る……目は墨のように黒い……」
「ミヨウヤって言うのは、考えのないもの、気持のないもの、話さないもの、耳の無いものっていう意味でも使うわ」セレンが口を挟んだ。
「獰猛なの?」
「……」オーキナは黙っている。セレンは何か考えていた。
「どういう意味?」
「……凶暴なの?……ええっと、恐ろしいの?」言葉が通じていなかったのか。
「素早いけれど、恐ろしくはないわ。耳がどこにあるか分からないのは、不気味だけれど」
「じゃあ……大きいの?」
「子供か、それより少し大きいくらいかしら。……普通は」
「普通は?」わたしのなかのダレカが言った。
「わしら――オは、ニカイに行っては、たまにオイイを食べに上がってくるミヨウヤを獲っているのです。みなであたれば、それほどの苦もなく捕らえることが出来ます」オーキナはそう言って、一呼吸置いた。「そのようなことで、わしらは日々を過ごしています。手を伸ばせば実が届き、足を運べば肉が取れる。サンナサンの恵みに、感謝の絶えない暮らしでありまする」
「……」そうは言われても、何とも答えられない。ゴーストライターの代わりに表彰されているみたいなものだ。
「でも、最近はそう平和ではない」
 セレンが呟くと、オーキナは黙ってしまった。顔の皺の陰りが濃くなる。
「何かあったんですか」オーキナは黙っていたが、セレンが説明した。
「少し前に、物凄く大きいミヨウヤが現れたのよ。あなたよりも、さらに大きい。それで――オたちの何人かが、殺されて喰われている。オイイも段々喰い尽くされていっている――」セレンの話し方には抑揚がない。しかし、事態は深刻なのだろう。オーキナが言った。
「わしらは今、全力であやつを殺そうとしておりまする。あやつはニカイに現れると、その膨大な腹が満ちるまで喰い尽くし、外に消えます。そして腹のなかの大甕が空になったのか、半月ほど経つとまたニカイに現れます。月も満ち、あと二三日でやって来るでしょう。次に現れれば、オイイは全滅しまする。そして恐ろしいのは、その後……」
「そのあと?」わたしは心のなかで呟いた。オーキナは黙っている。セレンは静かに座っている。わたしは、ちょうどこちら側に向いた、セレンの腕の付け根を見ていた。「その後は……そのミヨウヤなるものも、食べ物が無くなるわけだから、次の獲物を求めることになる訳だ」心のなかでダレカが話した。「詳しくは分からないけれど、マンションの外から食べものを求めて二階に上って来たのなら、とりあえずは食べられるものが無くなるまでは、階段を上り続けるんじゃないかな。上の階にはちょうど食べやすそうな「こびとさん」が居るんだから。上から下へ、水が流るるがごとく……いや、この世界では、蔓草がオクジョウまで伸びるがごとく……とでも言うのかな」わたしはセレンの腕の付け根をぼんやり見ていた。ダレカの言うことも、セレンやオーキナの言うことも――わたしには現実感をもって響いて来なかった。
「何としても、次で喰いとめなければなりませぬ。しかし、わしらと比べると、あやつの身体は甚だしく大きい。戦は苦しみを極め、正直なところ、わしらは弱り果てております……」
「……」
「……」つまり、わたしにどうしろと――とわたしはこころのなかで言った。するとダレカが答えた。「分かるだろう?」わたしと、セレン、オーキナの三人は黙っていたが、やがてオーキナが皺の重なる重たい口を開いた。
「サンナサンが……失礼ながら、小さき我々の救いになって下されば……安らかなるウチを取り戻してくだされば……わしの命も捧ぐ幸せでありまする」
「……」
 誰も、何も言わない。オーキナはわたしの後ろの方の壁を見、セレンはわたしの顔を見ているようだった。このひとたちは何を言っているのだろう――わたしには何も分からない。今は、いったい何時頃だろうか。わたしはケータイを取り出して、時間を確認したくなった。しかし、ケータイは西の端の部屋の、リュックの中に置いてきた。わたしは、蔓に覆われた壁を見、北の窓のほうを見た。青い空を格子で隠すように葉が折り重なっている。部屋の明暗がつぎつぎに変わる。雲が流れているのだろう。
 わたしはもう少し――誰かが言葉を継いでくれるの期待していたが、話は終わりのようだった。土の器に入った水を見ると、まるで水面に「あなたの番です」と表示されているようだ。わたしが何らかの行動を取らないと、もう先には進まないらしい。ダレカは一言も口を聞かなかった。こういうときに、ダレカは決して口を滑らさない。わたしが助けて欲しいと思うときには、決して、わたしにヒントを与えたりはしないのだ。口をパクパクさせながら、こころのなかで声を出せなくても、ダレカは勝手にドコカに行ってしまっている。
 セレンはわたしを正視しながらじっと待っているようだ。何か言わなければならない。わたしは考えたが、それはただ、頭のなかでぐるぐるぐるぐると同じところを回るだけだった。何を言うのが正しいのだろうか。正解に至る分岐は、どこにあるのだろう。一体どこから始めればいいのだろうか。セレンが、何か尋ねてくれればいいのにと思う。それに対して答えるほうがいい。わたしは顔を上げて、セレンの目をちらりと見た。彼女の瞳は湖のように静かで、鏡のようにわたしを映すだけだった。
 五分くらいだろうか、実際には数秒のことかもしれない。誰も何も話さず、部屋の草木が石のように感じられた。鳥の飛び立つ音が聞こえ、葉の揺れも耳に入って来る。わたしの後ろの廊下で、誰かが走っている音が聞こえた気がした。いや――それは実際に誰かが走って来ているみたいだ。音がはっきりと聞こえてくると、すぐ声がした。
「オーキナ、いいかい?」
 オーキナは戸口に目を向けて、一呼吸置くと静かに立ち上がった。セレンはわたしから目を逸らし、入口のほうに視線を向けた。場の空気が動き出し、わたしはほっとした。
「なんじゃ、いま大事(おおごと)じゃ」
「ミヨウヤが取れたよ!けっこう大きめのが上がって来てさ、すごいんだ!カツミが一発で仕留めちゃったよ」
 衝立の外側から声がした。音の高さや方向から、子供の声だと分かった。
「そうか、わざわざ報告ご苦労。しかしな、今はそれよりもっと重い話し合いの最中じゃ。おまえとおまえの父さんと、その父さんと、父さんと、父さんを全て合わせたのより重い事じゃ。サンナサンが今ここに居る……と言えば、赤い実くらいのおまえの頭でも分かるな?」
 オーキナの喋り方は穏やかだったが、そこにちょっと苦い味がするのは間違いなかった。部屋の外の子どもは驚いたみたいで、言った。
「うっ……ごめんよ。でも、今日も獲れるとは思ってなかったからさ……」
「ああ、それは喜ばしいことだ」
 オーキナは別段怒っていなさそうだが、わたしの為に気の毒なことになっている外の子どもに、申し訳なかった。セレンは何か考えているようだったけれど、ふと、顔を上げるとわたしとオーキナに言った。
「ねえ、せっかくだし、今から下に行って、見に行きましょうよ。三奈も、どういうものか実際に知ったほうが良いでしょう?『聞いて、見て、食べて』ってね」セレンは、そう言って微笑んだ。オーキナもこっちを向いている。セレンの言う、最後の方のことはよく分からないが、わたしは答えた。
「……ええ、そのほうが良いかもしれないです」
 オーキナは、少し難しい表情をしていたけれど、やがてまた、穏やかで皺だらけの顔つきになって言った。
「そうかもしれませんな。ではニカイに行ってみましょう」
 わたしがウロから外に出ると、わたしの腰くらいの背丈の子どもが立っていた。先に外に出ていたオーキナが言った。
「おまえは先に降りて、オたちにサンナサンがお越しになられると伝えてくれ」
 そう聞いて、ちんちくりんでクシャクシャの髪の男の子は――わたしの顔を見上げ、すごく珍しそうに、飴玉のような瞳を向けていたけれど――はっとして、非常階段の樹の方に走っていった。すぐに境目を飛び越え、がさっと階段の樹のなかを駆けて、下りていった。わたしたちはオーキナの先導で、蔦の廊下を歩きだした。
 廊下にある壁の切れ目を抜け、非常階段の樹に降り立つと、重なる枝の隙間を通り抜けていった。午後の遅くになって、辺りは涼しく包まれ、さらに瑞々しさが増している。弾力のある蔓を踏み、柵を覆う枝に触れながら、涼やかな葉の呼吸のなかを歩いていった。毛皮を腰に巻いたオーキナが、先に階段を降下していく。ふと、距離を取らないと危ないだろうと思って、わたしは階段のふちで立ち止まった。オーキナがそろそろと下っていくのを眺める。わたしの記憶のなかで、はっきり区切られていたはずの踏板は、今はびっしり蔓木で覆われていて、一様なのだ。わたしは少し目線を上げて、辺りを観察した。柵に、渡し通路に、階段、どこにもどこにも、木がうねり、葉を茂らせている。平行線で構成されているはずの鉄筋の階段なのに、その線は雨の日の玻璃ごしのように、ぼやけて無くなっている。ふと、葉が息をしているのが分かった。そしてその呼吸のリズムが、わたしのそれとまったく一致していると気付いたときに――確かに――一瞬、雲の動きが止まった。
「下りないの?」
 わたしは、はっとして後ろを振り返ると、セレンは不思議そうにわたしの顔を眺めた。少し離れた下の方では、オーキナがこちらを見上げている。わたしは腰を下ろして、両手を後ろに突っ張り、膝をヤドカリのように交互に動かして、枝と枝のあいだを渡って、下りていった。
 非常階段の樹に包まれて、そのなかをひとつふたつと下っていき、少しずつ辺りの樹木より低くなってゆくと、ニカイに着いた。ここがニカイだと、わたしにもすぐに分かった。九階からここに来るまでは、少しずつ暗く、少しずつ静かになっていくだけだったが――また違った場所に来たという感じがする。しんと暗くなっただけではない。今までは明度の違いだけだったのが、ここに来て色味が変わったような気がした。木の幹に蔽われ、相変わらず植物に囲まれているが、下も側面も――何だろう、水槽の底のように視えない壁に仕切られているように感じる。しかし、階段を下りている最中に見たものが、そのちょっとした印象を、瞬時に消した。これが――彼らの言うオイイという作物なのだろうか。セメントのような灰白色の、石膏を吹いた木の根っこのようなものが、それも、端がズタズタになり、蔓延っていた。ちょうど階段が終わって水平になるところから生え始め、敷居を跨ぎ、共用廊下の部分にも広がっているようだ。そして、その階段から廊下に跨ぐ、塀の切れ目を取り囲むように、背の低い、子供のような、黒々としたほとんど裸の成年男性が集まっていた。わたしは、その群がりの一番前に、カツミが居るのを認めた。
 オーキナが先に廊下に出、オたちの列に加わると、わたしもニカイの廊下に立った。その刹那――オたちは頭を下げ、わたしに向かって礼をした。カツミも頭を下げていた。わたしは当惑した。逃げ出したい欲求に駆られたけれど、後ろにはセレンが立っている。やがて、オたちが頭を上げた。目の前のカツミも顔を上げ、わたしと目を合わせた。場の雰囲気がそうさせているのか、褐色に焼けた顔は、一段と大人に見えた。ずっと目を合わせているのに気付き、慌てて視線を逸らしたが、カツミの周りのオたちも、わたしの胸くらいの背の高さから、長く伸びた髪や髭や、腰にまとった毛皮で、野蛮な姿をして、皆が皆こちらを向いている。目が泳ぎ、また前に視線が向く。目の前のカツミの身体は、周りの、他の小さいヒトと比べ、顔や、胸にも、ほとんど体毛が生えていなかった。それが――そのぶん引き締まった体躯が浮き彫りになっている。滑らかで、ぼこぼことした肩と首、胸板、その下に――六つに割れた固い腹がある。腰の毛皮の上で、すーっとカツミが息を吸うのが分かった。はっと我に返って、目線を上げると、彼の口から声が出た。
「こちらに捕らえたミヨウヤがあります。案内します……」
 そう言うと、カツミは、道を開けた他のオたちの脇を通り、左の西のほうに歩いて行った。わたしもそのあとを付いていった。廊下に集まった、小さい、半裸のオたちを分け入り、濃密な、汗と草と皮脂の臭いを溶かしこんだ空気のなかを通り抜けた。
 わたしを含めたオの集団は、ニカイの廊下を歩いて行った。わたしは、奇怪な小さいヒトたちに囲まれて、塀の内側を進んでいた。歩きながら、わたしは昨夜のことを思い出していた。薄暗い洞窟のなかで、あらゆる方向からこちらを見ている、赤い火に照らされた目という目を、思い出している。
 わたしは下を向きながら廊下を歩いていた。暗い地面には、がさがさと、ところどころ剥離した白っぽい木の根が覆っていた。数分前のわたしは、オイイというのは小麦のような作物かと思っていたけれど、それがまったく違っていることが分かった。床には上に伸びる茎もなくびっしりと、灰白色の、亡びたような木の根が密集しているだけだ。セレンが後ろを歩きながら、前を歩いているわたしに、下のがオイイよと教えてくれた。なるほど、初めは切れ切れだったのが、西の廊下の端に近づくにつれて、全体を覆い、厚みを増して行った。次第に、二層三層とぎっしり生えて、その上を歩いているわたしの頭も、だんだん周囲より高くなっていく。わたしの周りのこの人たちは、これを栽培しているのだろうか。もしそのような人為的なものが無かったとしても――この灰色の、まるでコンクリートで出来ているような木の根は、森の、どの植物とも違っている。
 わたしたちは、エレベーターの木の脇を過ぎた。わたしの前を進むカツミも、後ろに居るセレンも、オの集団も、それぞれオイイの上をズシズシと進む。別にその上を平気で歩いても良いらしいが――わたしの足もとで、オイイがギシギシと鳴る。ギシギシギシギシギシギシギシギシ。頭が痛い。
 彼らとわたしは、西の廊下の、一番端のウロの前に着いた。出入口が、積み上げられた木の枝で覆われている。わたしの後ろに居たオのうちの二人が前に出て、その、間口に蓋をしている、紐で編まれた木の枝の両端に立った。オイイが何層にもなって地面が競り上がっているので、間口が上の階の三分の二ぐらいの高さしかない。それでも、その枝を積み上げて編んだものは、わたしの肩と同じくらいの高さに見える。胸も腕も、毛に覆われた筋骨隆々のオたち二人は、腕に力を入れると、引っ越し業者がキャビネットを運ぶようにして、枝の覆いをそのまま横に移した。ぽっかりと入口が顔を出すと、カツミがそこを通っていった。入口を開けたオたち二人が、わたしを見ている。わたしも頭を下げてウロに入っていった。枝の覆いの横を通っていったが、まるで有刺鉄線のように、堅い、荒々しい木の枝が、びっしりとこちらに突き出ていた。
 ウロの中は、これも今まで見てきたものと雰囲気が違っていた。壁に黒っぽい根が張っているのが目立つ。まさに洞窟のように、ひんやりとして、水っぽい。壁面は滲んでいた。ウロの両脇には、白い根っこが積み上がっていた。多分オイイを貯蔵しているのだろう。規則正しく山にして積んである。部屋は苔やシダ類が目立ち、ウロの奥の方では――遠い闇が広がっている。北の森への窓口。どこまで続いているのかも分からない森の暗黒の端だ。その向かいの闇の枠と、こちらの出入口を結んだ真ん中に、カツミが立ち、わたしの方を振り返った。彼の後ろに、何かが在る。わたしは、赤銅色の、頭髪の塊がごろんと横たわっているのを見た。そのとき――不意に、わたしはある「イメージ」を見た。部屋を間違えて開けたホテルの一室に、目に飛び込んできたものは、ベッドに伏している女性。シーツの上で、腰まで覆う長い髪――裸のまま、死んだように、白い足を現わにしている。
「これが、ミヨウヤです」
 カツミがそう言うと――――わたしはまたはっとして目の前の姿を見た。現実が、カメラのフォーカスを合わせるように浮き上がって見えると、ウロの中には長い赤い毛に覆われた、モップのお化けのような塊があった。これがミヨウヤという生き物なのだろうか。大型犬が伏しているくらいの大きさで、赤茶色の、皆既月蝕の月のような色の毛で、四肢が見えないくらいに覆われている。見た目は長い毛の塊だ。ただ――確かに、動物の死骸を見ているという感じがする。道に不意に現れた、死んだ鼠や鳩を見たときの、そこだけが屈折しているように――――見えている。
「これは、結構な大きさじゃな」
 わたしの脇の方でオーキナがそう言って、その獲物に近付いた。赤い毛の塊のそばに座ると、それを引っくり返した。カツミは立ったまま、それを眺めている。わたしは身体中が痺れたように、それを見下ろしている。オーキナが、垂れ下った長い毛を分けて下ろすと、犬の腹のような、白い、ボールのような曲面が剥き出しになった。そのラグビーボールのような曲線の、いちばん丸みを帯びたところに穴が空いていた。硬く、尖ったものがそこを貫いたのだろう。一筋の赤い血が流れていた。その映像を見た瞬間――わたしは、白いTシャツを着た、丸い頭の黒い毛の、周囲のオたちより背の高い、女の子の後ろ姿を見た。……それは「わたし」だった。
「いや、これは凄いな」「大したものだ」というような話し声が周りから聞こえた。ウロのなかの彼女――わたしの後ろに、オ達が集まっているのが見える。彼らが言ったのだろうか。彼女は、また、どうにも自分の立っているところが分からない感覚を感じているようだった。そのせいか、話声が、やけに遠くで聞こえる半面、自分の中からしているような錯覚を覚えている。異常な背丈の、老人と男たち――距離の感覚をとれていない。
「どうでしょう、これがミヨウヤと言うものです」
 オーキナは、またそれを上下に引っくり返すと、赤い長い毛を払って被せ、彼女――わたしのほうに突き出した。黒い細い根の張るじめじめとした部屋の中央で、彼女の目の前に、動物の死骸が差し出されている。彼女は何とも言えなかった。そのときに、ダレカが代わりとなって、話をし始めた。
「わたしに、何とかして欲しいというのは、これよりもっと大きいと聞きましたが」
「ええ、そうです――」
「どのぐらいなのですか」
 オーキナはふと、思案を巡らせているようだったが。徐に両手を広げた。彼はそれで大きさを伝えようとしたようだったが、何も言わず手を下げた。彼の背丈に沿う腕の長さでは、とても足りないくらいらしい。
「このミヨウヤの三つ分くらいの大きさでしょうか……」
「そうですか。性質は同じなんですか」
 オーキナは黙った。そして、肩越しに「わたし」の後ろに居るセレンの顔を見た。彼女は続ける。
「大きさ以外に、特に一般的な――そちらのミヨウヤと違うようなところはありませんか。より攻撃的であったり――そうですね、頭が良かったり、進んで襲ってくるようなことは無いですか」
 オーキナははたと、困り顔になって、彼女――わたしを見ていた。彼女の後ろに居るセレンが、前に進んでオーキナに何か説明した。彼らは話し合っている。そのときの彼らの言葉遣いは、彼女――わたしには理解出来ないものらしい。やがて、セレンが一言だけ言った。
「馬鹿でかいというだけで、わたしたちには大変な違いだわ」
「成程、分かりました」
 これ以上、彼らに聞いても無駄だろう。とりあえずこの場を切り上げなくてはならない、と思ったのか、彼女――わたしは周りを見回した。そして、ここに居る小さい男たちと、セレン――そして、さっきから怪訝な顔つきで、彼女を見ているカツミに向けて話した。
「はっきりと、その大きなミヨウヤなるものをわたしが倒せるとは言えません。が、しかし、こうして手厚くもてなしてもらった恩には報いたいと思っています。約束します。貴方たちを助けましょう。やれるだけのことはやりたいと思います」
 わたしは――自分がそうやってしゃべっている姿を、部屋の天井の辺りから眺めていた。しかし、「わたし」がそう言った瞬間に、わっと部屋のなかに歓声が上がった。周りの小さなオたちは、歓びを露わにし、隣りどうし、話し、わめき、興奮を伝えあった。見ると、泣いているひとまで居る。オーキナも目を見開き、「わたし」の方を見て涙を浮かべた。
「ありがとう……ありがとうございます。ぜひともお力添えください」
 「わたし」の居るウロの中は大変な興奮に包まれた。止めどない熱気と、やまない歓声。誰も彼もが、期待と歓びの波に飲み込まれていた。わたしはその騒ぎの渦を、ぼんやり上から見つめていた。特に――カツミが他のオたちに抱かれながら、静かに「わたし」を見ているのが印象的だった。

 雨が降り始めていた。わたしは九階に戻って、西の端の部屋にセレンと居た。小さな人達は、今夜もぜひ宴会がしたいようだったが、「わたし」はそれを上手に断った。静かに、これからどうするか作戦を考えたいと。オたちはその申し出に納得し、むしろ率直に感激までしているようだった。皺だらけの顔のオーキナは、涙を浮かべて微笑みながら「それならば、お食事はウロに運ばせて頂いても?」と言っていた。それで、わたしは、夜になって火の焚かれたウロに移り、セレンと一緒に食事をしていた。
「少し離れるわ」と言って、セレンはウロから出て行った。わたしは茫然と、囲炉裏の薪の爆ぜるのを見ていた。葉にかかる湿った雨音のなかで、枝を燃やす赤い火がパチパチと明滅していた。火の光は明るかったが、電気の無いこの世界で、それはむしろ海岸の焚き火のように、暗闇を強調しているように感じられた。「どうして、あんなことを言ったの」と、わたしはダレカに話しかけた。もちろんダレカは、わたしの問いかけには答えなかった。気分が悪い。大変に、厭な感覚だった。わたしの――自分の――後ろ姿が見えたのは。
 わたしは彼らの声を聞き、腕を動かし、話をしていた。わたしは他人のそれを見るように、自分を後ろの方から眺めていた。わたしが話している。何かを言っている――そしてわたしは、小さな人達に約束を交わしていた。わたしの本意では無い約束を。「わたしの知らないうちに、わたしが何かをしている」雨の音を聞きながら、わたしは言いようのない恐怖を感じた。わたしは、どこに立っているのだろう。急に舟が引っくり返って水中に投げ出されたように、上が下かも判らない。わたしは――このまま溺れてしまうんじゃないだろうか。ぐるぐると回る遠心分離機の中、自分から――どんどん遠くに離れていってしまうのではないだろうか。
 何度も手櫛で頭を掻いていると、後ろで物音がして、セレンがウロに入ってきた。セレンは、座っているわたしの目をじっと見、囲炉裏の隣の辺に座った。わたしは落ち着かず、髪をかき上げていた。二人とも食事は済んでいた。わたしは何も口にしなかったが。セレンは陶器の器から、水をひと口、ふた口と飲んだ。わたしは髪を掻いていた――何度も何度も――おかしいとも思ったけれど、何故だか止めることが出来なかった――特に――セレン右腕の付け根を見ると――手が止まらなかった。
 彼女はいつの間にか、蔓の床に置いてあったわたしの漫画を手に取り、読んでいた。わたしは炎のゆらめきと、降りしきる雨の音を聞いていた。今は、夜の七時頃だろうか。リュックから携帯を取り出したが、電源は入らなかった。今日が水曜日なのは覚えているが、何日だったか――思い出そうとしたけれど、うまく思い出せなかった。携帯を見て確認できないと知ると、余計に気になった。何とか日付を割り出そうと考えたが、あてになる一日がない。終業式、春休みの初め――何日だったか思い出せなかった。明日は、春休み初めの部活だ。紅白戦を次の土曜日にやる。曜日は把握していたが、日程はどうしても思い出せなかった。学校がいつから始まるかも出てこない――というより、日ごろ、わたしは日付を覚えないのだ。それなのに、今は大変に気になった。頭の中に日にちを知りたいという考えがこびり付いてしまった。時間が経つにつれ、それはずっしりとした、大きな岩の塊になっていった。
 わたしは髪を弄りつつセレンを見た。彼女は暗く赤い火の光で、読めもしない漫画を熱心に眺めていた。炎が――暗い為だろう、大きく見開いている彼女の瞳を照らしていた。火の光が揺らいでいるせいだろうか。わたしには、彼女は紙面を見ているようで、そこを透かして、床の蔓木を見ているようにも映った。あるいは、どこか別の、全く違う窓の風景でも覗いているように見える。
「今日はこれくらいにしておくわ。目が燃えそうだもの」
 わたしが見ていると、急にセレンは本を閉じ、後ろの床に置いた。顔を上げ、両方の目を手で押さえた。
「読んでいて分かるの」わたしは髪を触りながら尋ねた。その漫画の話は、学生が主人公の恋愛ものだ。主な舞台は、現代日本の学校や街だ。さっきまで見たところ、ページはほとんど進んでいなかった。セレンは何分も掛けて一つのページを見つめて、次に移っていた。
「どういうこと」
「何の事だか理解できる?」
 セレンは、顔を炎で染めながら、わたしの目を見据えた。わたしは彼女が美人なんだと、改めて思った。落ち着いているのは、きっと自信があるからだ。自然な、無意識に在る自信。わたしも街や学校などに居て、ある人を見ると感じたりする。それは、多く、容姿の整った子が持つ、どことなく身に纏っているものに思えた。わたしは、セレンから目を逸らした。彼女の瞳は夜のように寂かで、今は漁火のように、火が灯っていた。
「分からないわ」
「そう……」
 わたしは目を逸らしていたが、彼女はわたしの瞳を見ているらしい。何があって――そうじっと眺めているのだろう。
「わたしはもう寝るわ。あなたも寝たほうが良いと思う」やがて、思い出したようにセレンは言った。
「そうだね……」わたしはこのまま、すんなり眠れるとは思えなかった。
「マンガをくれたお礼に、これをあげるわ」
 わたしは目を上げた。セレンは懐から何かを取り出して、それを差し出している。彼女が、わたしの前に出した手には、銀色の分厚い円盤が乗っていた。
「カガミと言うものよ」
 鏡――わたしは分銅のような金属のかたまりを受け取って、眺めた。円盤状の重みのあるそれは、大きさの違ういくつかの同心円に、点や波などの文様が付いている。それを引っくり返すと、なるほどツルツルとした金属の平面が、赤い光を反射していた。ただ、鏡と言うには――ガラスも貼っていない金属の盤は、わたしの顔を頼りなく、ぼんやりと映すだけだった。
「何でこれを?」わたしが尋ねると、微かに、セレンは戸惑う素振りを見せた。
「ウチにはこういうものは無いのよ」
 セレンは、わたしの漫画を見て、そう言った。わたしはしばらく考えた。「こういったものは無い」漫画のようなものは無い――それはそうだろう。こんな原始時代みたいな森の中で――それは分かる。それが何で、どこを通って、わたしに鏡を渡すことになるのだろうか。よほど珍しいものを貰ったと思い、代わりにこの世界で貴重なものをと思ったのだろうか。
「大事な物なんじゃない。貰っていいの?」
「どちらにせよ。サンナサンから授かったものだから。そう言われているものよ」
 彼女の言っていることは、しっくりこなかった。それに、そもそも、漫画は貸しただけだと思っていたけれど。でも今は、一応受け取っておこう。何かあれば鏡は返せばいいし、漫画は――買えばいい。
「じゃあ……貰っておく」わたしがそう言うと、セレンは立ちあがり、ウロのなかを片づけ始めた。器や色々な物をまとめて、外に運んだ。異常に小さな女性――メたちが二人入ってきて、後片付けと、寝床の支度をした。セレンがメの一人を指揮すると、今朝わたしが寝ていた、何かの屑と毛皮のベッドが綺麗に整えられ、同じものがその横に準備された。すべて終わると、メの二人はわたしたちにお辞儀をし、ウロから出て行った。
 セレンはそのまま、ふわりとした屑のベッドに行って横になった。わたしも同じようにベッドに入り、試しに毛皮を掛けてみた。眠くは無かった。毛皮の中で何度も寝がえりをうったが、どのように身体を動かしても、必ずどこかの箇所に意識が向いて落ち着かなった。仕方なく肘をついて、うつ伏せになり、貰った鏡を見た。薪が減ったので暗くなり、銀の円盤は、わたしの顔をより鈍く反射していた。水面や、何も点いていない液晶に、わたしの顔らしきものが、どことなく映っているというぐらいだった。わたしは目を離して、部屋の暗闇を見つめた。今は何時頃だろう。家では――どうなっているだろうか。ずいぶん前に感じられるけれど、それはまだ昨日のことだった。それでも――わたしの居なくなったことは知られただろう。父と兄はどうしているのだろう。今何をしているか、まったく見当が付かなかった――というより、不思議なほどに、具体的な想像が浮かばなかった。上手いことイメージ出来ない。何でもいい、一つくらいあるだろう。彼らがしてそうな行動や、存在している場面が。ひとつも頭に浮かばなかった。わたしは暗がりで横になり、そのなかで考えた。いくら考えても――あらゆる方向に直線を引いても、思考の中に、結ぶべき点が無い。それでも、虚しく引かれた直線を取り出すと――線は存在していなかった。わたしは考えた。「二人は今何をしているだろう」「二人は今何をしているだろう」「今は何時頃だろうか」「二人は今何をしているだろう」「二人は今何をしているだろう」「二人は今何をしているだろう」「二人は今何をしているだろう」「今は何時頃だろうか」「二人は今何をしているだろう」「二人は今何をしているだろう」「今は何時頃だろうか」「今は何時頃だろうか」「今は何時頃だろうか」「今は何時頃だろうか」
 ふと――焦点が、また目の前の鏡に合わさった。朧げに、わたしの顔が映っている。見ても顔の様子を窺がうには難しく、特にどの部分をチェックすることも出来ない。そして、わたしは何の前触れもなく泣き始めた。何だか分からない。泣く理由は幾らでもあるように見えて、そのどれに対しても涙を流しているわけでは無いように感じられた。わたしは音もなく泣き、頭は、適当に広げては閉じる写真集のように、断片的なシーンを思い浮かべていた。能動的なものは何も無かった。わたしの脳みそは、ただただ、別のどこかから、ザッピングされた映像を受け付けているようだった。いつの間にか、母のことも思い浮かべていた。いま、どこにいるのだろうか――わたしのように、どこかで横になっているのだろうか――そう思っていると、徐々に、慎重にダイヤルを合わせるように、映像が現れてきた。ゆっくり、少しずつ――少しずつ――母の姿が鮮明になっていく。景色が段々とこちらに近づいてくるようだ。あともう少し……もう少しで、彼女の居る部屋も、着ている服も、見えてくる……。

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