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とくべつなひと

私には、特別なひとがいる。正しくは、「なんと呼べばよいか分からないが、ただ、特別大切であることは間違いないひと」だ。

「とくべつ」と一言で言っても、そのひとは家族でもパートナーでもない。同級生でも先輩でも後輩でも、同期でも上司でも部下でも、友人でも親友でもない。そんなひとだ。

彼とは大学時代に出会った。年齢は同じで学年はひとつ違い、学部とキャンパスが違って1年に数回会うくらいの仲。たまに会って半年くらいの近況報告をして、これからの話なんかをした。恋愛の話もよくしてた。当時の恋人とも仲良くて、みんなで一緒に食事にいくこともあった。同じ場所で働いてたこともあった。一緒にいる時間は長くないけど、お互いのいろんな顔を知っているちょっぴり不思議な存在だった。

この人が自分にとって特段大切な人だと気づいたのは社会人になってからだ。彼は研究職を目指して更に進学。私は就職して上京。もちろん、会う機会は減った。だけど連絡を取る頻度はそんなに変わらなかった(数ヶ月に一回)。たまに元気?とLINEが来て、長電話で近況報告する。卒業すると疎遠になる人も少なくない中で、変わらずそれが続いていた。

あまりにも価値観がフィットして、あまりにも人生のタイミングがリンクする彼に、私の人生の素晴らしい変化は何度もサポートされてきた。親友という言葉では役不足なくらいにセレンディピティを感じる存在なのだ。ただ、この人がただの「友だち」とは言えないと気づいた時に、私は彼を自分にとって何と定義すればよいのかわからなくなった。

私にとって彼は、愛しているという言葉がとても似合う存在だ。彼自身が、その言葉を屈託もなく人に伝える姿がそう思わせるのは勿論、私自身も彼を愛してると、ナチュラルにそう言える。だけどそれまでの私は、自分にとっての愛しているという言葉が似合う存在を、家族と恋人以外に知らなかった。これまでの愛していると共存するのとは違う、この感覚が何なのか知らなかった。

例えば、彼が素晴らしいパートナーと結婚する知らせを受けたら、それはものすごく嬉しい。飛び上がって心から喜ぶと思う。それと同時に自分たちがパートナーとなって結婚する未来も同じくらい素敵だと思う。なんていうか、どちらもフラットに曇り無く素晴らしいと言える。この共存するはずがなさそうな場面と気持ちが、まさかの共存を果たしている感覚が非常に不思議だった。

ある夜、そんな話をしていると、彼は電話の向こう側で、とってもよく分かるよそれ、分かりすぎて笑える、と言いながら大笑いをしていた。その笑い声を聞きながら、これは言葉で分からなくていいなと、むしろ言葉にするのが無粋だと、そう思った。

何かにつけて白黒つけたい、言語化したい人生を生きてきた私が、自然にそう認められるようになってから、私にとっての「人間関係」というものは幾分か気が楽になった。誰かとの関係性を説明する言葉は無くて良い。感覚が完全に言葉に当てはまることなんてほぼない。今はあっさりと、気が抜けるくらいそう思う。

だとしたら、私は目の前にいるその人との関係性を大切に生きていきたい。みんなにとって分かりやすい何かに当てはめなくたって、私たちがその「関係性」をよくよく知っているから。

言葉に甘えることなく、純粋にいきていこうと思う。

ありがとうございます^^