同じ場に立ててる場合の天才と凡才の違い

才能って大きく分けると2つある。

1つはそもそも同じ場に立てないことに加え、
それが自分ではどうにもできない才能です。

例えばバスケットボールにおいて身長というのは才能の1つで、
ある程度の身長がなければプロの場に立つことはほぼ不可能。

アメリカのプロリーグであるNBAだと170cm台の選手はほぼいない、
日本国内のBリーグだと少ないながら160cm台の選手もいますが、
世界的に見れば少なくとも180cm前後は最低でも必要と言っていい。

身長というのは生まれながらの骨格等である程度決まってしまう、
後天的に伸ばすことが難しいものですからバスケットにおいては、
自分ではどうしようもない才能の差が成否を分けるということ。

このような才能も確かに存在し自分ではどうしようないこともある、
これについてはしょうがないと諦める以外にとれる道はほぼないでしょう。

ですが、同じ場には立てたうえでそれでも才能の差を感じてしまう、
客観的に見ても天才と感じる人と凡才と感じる人がいる。

この違いは何かと考えると単純に努力の差なんですよね。

特に努力しなくてもいい時の努力の差です。

大抵の分野において正しい方向性の努力はそのまま結果に直結し、
誰であれ成果を出すことができるようになる。

ですが、成果が出てくるとほとんどの人は努力を忘れる、
自分や自分が形作ったものをより高めようとしなくなる。

現状維持すればいいと考えてしまうのですが常に変化する社会において、
現状維持は相対的に見れば劣化であることが大半です。

他は変化しより良く高い場所に行っているのに自分は留まるのですから、
そこに差が生まれるのは当然と言えるでしょう。

そもそも天才とか凡才というのも基本的には相対的なもの、
何かと比べて際立って影響力があるか否かということですから、
天才とはすなわち変化し続ける力の強さと言い換えることもできる。

努力とは人を変化させるために重要な要素であり努力し続けられることが、イコール天才であると言っても過言ではないと思ってます。

ようは、どんな時でも慢心せず自分を高めようと努力し続けられること、
それが天才と凡才を分ける差だと思うのです。

量より質、量をこなすより質が高いほうがいいという考え方もあり、
才能豊かな人はいわば最初から高い質を持った人だと言えます。

でも質は量、良質なものは量をこなした先に見いだせるものでもあり、
最終的には質と量を兼ね備えるのが理想的であるのは疑いようがない。

努力し続けられるということはこの理想を体現することなのですね。

なので、とりあえず才能の差は無視してやり切ったと言えるまで、
ひたすら自分ができる努力をし続けるのは大事。

それが引いては周囲から見て天才と呼ばれることにつながることもある。

あるいは、それだけ努力してもなお縮まらない冒頭でお話したような、
自分ではどうしようもない先天的な才能の差の壁に弾かれることもあり、
だけどそれならそれでしょうがないと諦めることもできる。

また次の道を探していくことができます。

一番避けたいのは中途半端に努力して曖昧さを残すこと、
到達できるかどうあっても到達できないか。

これをはっきりさせることは意識して活動していくと、
悔いを残さず常に前を向いて歩いていけると思いますよ。

それは豊かな人生を送ることにつながるはずです。


では、今回はここまでです。
ありがとうございました。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?