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カルボのこと

 カルボは今も元気にしているだろうかとふと思った。

 カルボは私が大学生の時にアルバイトをしていたリサイクルショップによく来ていた。もう二十年も昔のことだ。

 そのリサイクルショップは産業廃棄物処理の会社が母体で、会社の広告が目的であって特に利益を求めていないようだった。大きなテント倉庫の中に客が値付けをした品物を並べて、それが売れれば手数料を引いた売り上げを客に渡す。出品する人も買い物をする人もそんなに頻繁には訪れない。客がいなければ店内の掃除をしたり、出品されている服を畳みなおしたり、そうした雑用もなくなればレジの横に置かれているテレビを見るか、文庫の小説を読んでいた。

 カルボは買い物客としてやってきた。主に家電に興味があるようだった。値札を見比べながら熱心に見て回っている。そのうちに、店の一隅に置かれている値札が付いていない家電に気が付いて、これはいくらなのかと私に聞いてきた。それは出品ではなく金は要らないから引き取ってくれないかと客が置いていったものだった。動作確認をしていないので、使用できるかどうかもわからない。

 「壊れててもいいよ。そしたら安くなるね?」

 カルボはむしろ壊れていてくれた方が助かるとでも言いたげな顔で朗らかに言った。どうして壊れたものなんかを欲しがるのか聞いてみると、故障した家電を安く沢山買い集めて廃車寸前のトラックの荷台に積めるだけ積み、それを本国に送るのだという。カルボの故郷は東アフリカのウガンダで、向こうで家電を修理して売れば日本製だということでよく売れるのだそうだ。そうして貯めた金でウガンダにホテルを建てるのが夢だとやはり朗らかにカルボは言った。大学生で、限られたアルバイト経験の他には一般的な雇われ仕事くらいしか認識していなかった私は、なるほどそんな商売があるのかと感心した。そして安価に壊れた家電を売った。それからカルボは度々リサイクルショップにやってくるようになった。

 カルボがやってくると店長は「ほらお友達が来たよ」と言って私に対応をさせる。リサイクルショップにはだいたい私を含めて四人が常駐していたが、どうやら私以外はカルボと話をするのが面倒くさいらしかった。長居して、拙い日本語でしかし何くれとなく話しかけてくるカルボは小さい子供のようで面倒くさいというのもわからないではない。結局私は暇だったから、私が知らない国や文化への興味だけでいくらでも話していられたのだと思う。

 「象が見たい」

 ある日いつものようにリサイクルショップにやって来たカルボがこんなことを言い出した。これまで一度も象を見たことがないのだという。私は故郷がアフリカなら象くらい見たことがあるだろうと思い、象なんてその辺にいるんじゃないの? と言うとカルボは

「街にはいないよ!」

と憤慨して言った。

 なるほど、言われてみれば当然のことだが偏見というのはこういうことなんだなと思う。アフリカ全体の漠然としたイメージがあって、そのイメージの中に都市部は除外されているのだ。ホテルを建てたいと言っているくらいだし、カルボはウガンダでも都市部の育ちだったのかもしれない。

 それで実際に二人で動物園に行こうということになった。当日は雨上がりで、夏の熱気に蒸された空気が動物の臭いを際立たせていた。アジアゾウの前に立ったカルボは私の知らない言葉を漏らした。きっと「でかい」とか「すげえ」とかそんなことだろう。とにかく喜んでいるらしいことが私にも嬉しかった。

 それからカルボと私は友達ということになったらしい。携帯電話の番号を交換して、リサイクルショップ以外でも何度か会った。

 料理をふるまってもらったことがある。カルボは先に触れた中古家電のバイヤーのような仕事以外にもおそらく製造工場に勤めていたのではないかと思うのだが、カルボと同じように海外からやってきた労働者たちと同じアパートに住んでいた。カルボの部屋の中には俳優だろうかミュージシャンだろうか、雑誌を切り抜いたような写真が壁に貼られていた。音楽もかかっていたと思うのだが思い出せない。おそらく当時まだ私が聴いたことがないジャンルの音楽だったのだと思う。

 カルボが作ってくれたのは豆と牛肉の煮込みを白米にかけたものだった。煮込みは全体的に赤っぽいのだが、それが豆から出る色なのかパプリカなどで色づけたものなのかはわからない。辛くはなかったので唐辛子ではないと思う。このようにわからないことだらけだというのは、やはりカルボの日本語は拙くて私とは時々英語を交えて話をするのだが、私の英語はさらに拙いので聞きたいことを何でも即座に尋ねるということができなかったからだ。それでも拙い言葉で会話をしたり、言い淀んでいる時間が苦痛ではなかった。気が合っていたのだろうと思う。料理も美味かった。

 私の住むアパートにカルボが来たこともある。私も何か料理をしてふるまったのだったか、それは忘れてしまったが二人でベランダに出てウィスキーを飲んだのを覚えている。カルボが私の本棚を見たのだったか、私からその話をしたのだか、芥川龍之介についてこんな会話があった。

 「芥川龍之介は自殺したんだ」
 「自殺? どうして?」
 「それは……彼は頭が良過ぎたから」
 「どういうこと?」

 芥川龍之介の死因については肉体や神経の衰弱だとか、プロレタリア文学の台頭だとか、自身の不倫や親族の自殺といった家庭問題だとか、いろいろなことが言われている。本人は遺書にあたる「或旧友へ送る手記」の中で「何か僕の将来に対する唯ぼんやりした不安である」と書いている。私は芥川龍之介の作品を読み文庫本の解説を読むなどしてその辺の事情はわかっていたのだが、やはり拙い英語では伝えることができなかった。後年、山岸外史の評論『芥川龍之介』の中に「知識人が、いつもそうであるように、知識から生まれる『杞憂』の生活がおおかったことは疑う余地がなく」という文章を見つけて、私の説明も案外的外れではなかったかもしれないと思った。

 カルボはそんなことを気にしなかったが、言葉に自信が無い私の方からカルボに電話をかけるということはなかった。それにリサイクルショップにいればカルボはやって来ると思っていた。ところがカルボはぱったりとリサイクルショップに来なくなってしまった。またふらっとやってくるだろうと思っているうちに、なんとなく月日が流れた。私は大学四年生になっていた。

 ふいにカルボから電話がかかってきた。実はあのあと私が住んでいる街から離れた所に引っ越したらしい。そして新しく仕事を始めるのだと言った。

 「今度は何をするの?」
 「車を売る。中古車。一緒にやろうよ」
 「いや、俺も仕事が決まったんだ。来年は東京に行くよ」
 「なんで?」

 カルボと話したのはそれが最後だった。カルボは新しい仕事に邁進したのだろうし、私も新社会人として目まぐるしい日々を送った。その間に携帯電話を何度か買い替えていて、なかには故障によるものもあったのでカルボの番号は消えてしまった。

 そのカルボのことをふと思い出したのだ。

 今思えばこれまでに何度かアフリカではウガンダやほかの地域でエボラ出血熱の流行があって、ウガンダやアフリカという言葉を聞いてカルボのことを思い出しても良さそうなものだがそんな時には全く思い出さなかった。薄情な話だ。もしカルボの念願が叶ってウガンダに帰りホテルを建てることができていたら、カルボも罹患していたかもしれない。命に係わる疫病だ。考えれば考えるほど心配になるが、もう彼の消息を知る手立てがない。

 カルボは今何をしているだろうか。まだ日本で中古車を売っているだろうか。それともまたほかの商売を始めているだろうか。ホテルを建てるほどの金だ、そんなに簡単に貯まるはずがない。薄情な私ではあるが、彼の夢よりも彼の無事を祈りたいのだ。

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