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海と道を見に行った時の写真

9月19日 飛行機を乗り継いで北の島に降り立った。

 島の真ん中には山が聳え、そこから吹き下ろす風に 50人乗りの小さなプロペラ機は大きく揺れる。タラップを降りると少し肌寒い。空港というよりかは飛行場という風情だ。宿のマイクロバスが空港まで迎えに来てくれて、隣のカップルと一緒に乗り込む。標準語を話している。東京からきたのだろうか。いや、関西と九州以外の人は大抵標準語を話すから、出身地がばれているのは私たちの方か。霧か霧雨かという具合だった天気はバスが走るうちにすっかり晴れている。道が広い。

 秋だからか北海道だからなのか、空が広い。そう思って窓の外をみると山の裾野の草原が見えて、これもまた広い。森でなく畑でも田んぼでもなく、草原。枯れ草の色と枯れていない草の色、そして一番多いのは、枯れてはいないけれど乾燥している植物の色。路肩の溝の茂みがそのまま山まで続き、山裾は少し緑が濃くなっている。5時間飛行機に乗ってきたのは、この草原を見るためだったのだと思う。
 たまに集落が見える。どこか日本離れしている集落だ。本州の集落の家々は森に埋もれるようにして、あるいは山に張り付くようにして立ち並んでいる。この島の家屋は吹きっ晒しの道沿いに身をすくめるようにして立っていて、頑固じじいのような潔さを放っている、白や黄色やピンク色のペンキの家。この家々を見るために来たのだと、また思ったりする。

 気温や風や湿度は、物理的には写真に映らなくて、だからそれを直に肌に感じられるような写真を撮れるようになりたいのだと思う。たとえば、この岩場はオホーツク海をとばしてきた偏西風を真正面にくらう場所だ。だから海側には土壌が堆積せず、植物も生えない。頂上近くにはススキが最初から斜めに向いて生えてはいるが、その付近も手すりに捕まらずに歩き通すのは困難で、ハイキングコースが岩陰の下山道に差し掛かった時には心底ほっとした。そうやってなんとか撮ってきた写真を現像してみると、なんと穏やかな海に見えること。

 夕方、フロントで自転車を借りて、アイヌ語で「神がいる」という海岸まで行ってみる。微妙にオフシーズンだからか、30台停まる駐車場にはバイクが数台いるだけ。しばらく日没を待っていると、大層な望遠レンズを担いだお爺さんがやってきて雲のかかった山頂を睨んでいる。「神を撮りに来たんだ、でも今日はどうも駄目みたいだ。」 
 空がきれいに晴れていても、風と高度のせいで大抵山頂は雲が掛かって見えない。でもたまに神が見える時があるようだ。私は神を探すにはまだ若すぎるみたいですね、それくらいの返しが出来たら良かったのだけれど、その場は適当に話を合わせて私は海と道路を撮って帰って寝た。海と道を見るためにここまで来たのだと、また思ったりした。

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