個性と障害の狭間

 幼少期、個性という言葉に苦しめられていた人々は、大人になってから、障害という概念に縋る。心の弱さや病は写真には写らないけれど、そのぶん私たちを何よりも苦しめる。ストレスチェックや自律神経失調症のチェック、ADHDのチェックなどをしてみて、それらに当てはまる人はあまりにも多いようだ。自分の生きづらさが何に起因するのか、知って対策を取りたい、もう苦しみたくない。自認することや医師に診断してもらうことで心が少しでも軽くなるのなら、それは必要なことだと思う。
 
 私たちは会社に所属すると健康診断に行くが、あの検査だけでわかることは少ない。勿論、血液検査や尿検査の結果は大切だ。しかし、問診票の自覚症状に幾つもマルを付けても、「ストレスを溜めないようにしてくださいね」と言われて終わりだったりする。

 冒頭から無責任なことを言っているついでに言うと、個性は障害、障害は個性だと私は思う。重い障害に悩んでいる人が聞くとふざけるなと思うかもしれない。申し訳ない。しかし、体の不自由な人や介護を必要とする人を支援するシステムが存在しているという事実がある。それはその人には難しいことを、それを得意とする人に任せるという、個性を尊重した制度なのだと、私は思いたい。

多くの人が私はどこかおかしいのだろうかと悩みながらも生活をしていけるのは、苦手を誰かが補ってくれているからだ。でもそこで悲観的にならずに、穴を埋めてくれた人に感謝をしていればいい。その助けてくれた誰かの苦手を、無意識のうちに自分が埋めているかもしれない。そううまくはいかなくても、社会は広いから、めぐりめぐって、少しくらい誰かしらの役に立っているはずだ。

 なんとなくもっともらしいことを言っておいて、ここで満を持して、身も蓋もないことを言わせてもらう。別に誰の役にも立たなくていい。誰かのために生きる必要なんてない。強いて言えば自分の役に立っておけばそれだけでいい。どうせ皆そんなもんだろ。

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