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#77|毎日のnote投稿は、ありそうで少ない「自分の頭で考える」大切な時間。

高校生で「世界史」という教科に出会った。

ちょっとばかり外国への憧憬を抱いていたことと、教育実習の大学生がかっこよかったことが相まって、割としっかり勉強した記憶がある。センター試験は微妙な結果だったけれど。

紀元前の人が残した書物が現代でも読める事実に驚き、背伸びして岩波文庫でギリシア哲学者やローマ皇帝の本を読んでいた時期もある。

高校生が理解するには難しい。それでも一生懸命読んだ。

ただ、知りたかった。昔の人が考えていたことを。

古代人の思想だけではない。
あの頃はとにかく「何でも知りたかった」。

インターネットのない当時、「知りたい」欲求を満たしてくれるのは本だけだった。
その本だって、現代のように大きな字に図解でわかりやすく書かれているものは少ない。

知りたいことを教えてくれるのは、もっぱら岩波、中公、新潮…

字が小さくて、漢字が多くて、言い回しも難解だったっけ。

考えているようで、考えていないのかもしれない

翻って現代。とても便利な時代。

知識欲・好奇心を満たしてくれる情報に、片手でアクセスできる。

右手で歯磨きをしながら、左手でSNSをチェック。
気になることを「ググれば」、すぐに答えが手に入る。

実際、情報アクセスのハードルが下がったことに助けられる場面は多い。

今朝も浅はかな行動から低温やけどをしてしまい(なかなか痛い)、どうしたものかと「ググった」。そしてこの症状は皮膚科に行った方が良さそうだと指針が得られ、ひとまず安心する。

不安は不安を呼び込み増長させるから、落ち着ける根拠が得られるのはとてもありがたい。

一方、容易に情報にアクセスできることは、常に脳が刺激にさらされていることも意味する。

情報疲れ」だ。

SNSが顕著だと思う。

タイムラインに文字通り「流れていく」数多の情報は、ぼーっと眺めているだけのように見えて、実は脳にかなりの処理負担をかけている。

1.誰の発信か確認し、
2.内容を見て、
3.ふさわしいリアクションを返し、
4.発信者との関係を踏まえた適切なコメントを返す。

これを短時間にいくつも、いくつも。

脳が疲れないはずはない。

そしてもっと重要なのが、タイムラインに代表される「情報の海原」にいるとき、私たちは『考えているようで、考えていない』のではないか、ということだ。

流れる情報を見、いいこと知ったとわかった気になり、それで満足してしまいやすいからだ。

本当に心から共感、あるいはためになった投稿はブックマークし、見返せるようにしている。さもないと、やっぱり忘れてしまうので。
あれだけ流れてゆくタイムラインで「一瞬で心を動かす」投稿をするフォロワーさんの思考と文才は尊敬している。

SNSの使い方は人それぞれ。
やり方に云々言いたいわけではない。

ただ私は
入ってきた情報を吟味し、解釈し、自分にとっての意義を見つけ、脳にしまい込む」、
あるいは
蓄積した情報を使って、新しい情報について思索する」。

そんな贅沢な時間が、近頃激減しているなあと気づいただけということだ。

noteが「考える」きっかけを与えてくれている

noteを書き始めて77日。
紆余曲折ありつつ、毎日1500字~2000字のアウトプットを続けている。

まとまった文字数のアウトプットは、「自分の頭で考える」作業を抜きにしてはできない。

気づきを捉え、気になった理由を見つけ、深め、自分の外に伝わるようにストーリーと言葉を与え、書き上げて投稿する。

このプロセスは、全て「蓄積してきた情報を活かしながら、自分の内面と対話し思考しながら」初めて実現できる。

そう、何気なく始めたnoteが、いつのまにか「自分の頭で考えることへの欲求」を満たしてくれるものになっていたようだ。

そう、高校生の頃「知りたい」という欲求が岩波を読みふけらせたように。

情報に晒され続ける脳は、時に「じっくり考えたい」、かっこよく言えば「思索したい」欲求を持っているのかもしれない。

そして思索への欲求が、noteを書くことで満たされているのかもしれない。

考えるだけなら、一人でもできる。その通りだ。

でもやはり、人は人の中でしか生きられないもの。

noteに綴り、読んでくれる人がいる、「スキ」やコメントをいただける。自分の発信が誰かに届くというのは、嬉しいものだ。

だから私は今日もnoteを書く。
きっと明日も。

一緒に楽しみながら高め合える方と沢山繋がりたいと思っています!もしよろしければ感想をコメントしていただけると、とっても嬉しいです。それだけで十分です!コメントには必ずお返事します。