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何の得にもならないことをしようと思う

最近のこの状況になって、時間ができた。今まで、なんて余裕がなかったんだろうと思えるほどに。

そして、最近強く思うのは、どれだけいつも生産性を求めて生きていたか。

何をやるにも理由づけをしたり、これは後々役に立つからとか、時間を有意義に使わなくてはって思うあまりに休むことに罪悪感を抱いたり。どうせNetflix見るなら英語のにして勉強もしようとか、子供の感性を育てるために絵本を読み聞かせよう、とか。そんなことをたくさんしてきたなあと思う。

仕事をし子育てをし勉強をし、楽しみも得たいし…と、忙しい中では仕方のなかったことかもしれない。そうしないと毎日が回らなかったからかもしれない。でも、今時間ができて強く感じるのは、「今のうちに勉強をしよう」とか「今のうちに技術を身につけよう」とかではなくて、「今はなんの特にもならないことをしたい」と言う気持ち。

思い起こせば、小さな頃は、好奇心の赴くままに生きていた。蟻の動きが気になれば日がな一日見つめていたし、大きな木の上の特等席(太い横に伸びた枝で、カウチみたいにリラックスできる場所だった)で本を読んだり。学生の時には人間観察が楽しくて、街中のどこにでも(神社だったり公園のベンチだったり駅前のちょっとした段差だったりに)座って、行き交う人をただただ眺めていた。少し大人になってからも、旅先にスケッチブックを持って行って風景を描いたり、砂浜でぼんやり波を眺めたり、りんご畑の草の上に寝転がって空や雲の動くのを見たり。ぼーっとする時間だけでなくて、雑誌の記事に触発されて、餃子を皮から作ってみたり、地図も見ずに散歩したり、大人になってブランコがどのくらい漕げるか友達と競争したり、小説だってたくさん読んだし、その小説たちにかぶせるブックカバーを作ったりもしたっけ。それが何の役に立つ、だなんて考えることもなく。

この間の文章を書くワークショップは、そう言う意味で最高の時間だった。
何にもならない時間。リラックスできる、とか、クリエイティブなことにつながる、とかつなげようと思えば「生産性」につなげることはできるかもしれない。でも、今はそうやってつなげることもしたくないなと思う。しなくていいと思う。

生産性のあることをする、と言うのは、自分に対してだけでなく、周りからの見えない視線に対する予防線でもあったように思う。でも、本当はそんな言い訳をして生きる必要なんてないんだ。だから私はもっと、何の得にもならないことをしようと思う。




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