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「いつもの木曜日」6杯目

『木曜日にはココアを』スピンオフ掌編
【6杯目 美佐子(金婚旅行前日)】

あら、鳩。

夫の進一郎さんと薬局に行った帰り、川沿いの遊歩道を歩いている途中でひとやすみ。
川に向かって続く小さな階段は、まるでベンチのよう。

ふたりで腰掛けていたらやってきた、グレーの二羽。彼らもつがいかもしれないわ。ひょこひょこと首を突き出しながら近づいてくる鳩を見て、進一郎さんが微笑みます。
「ビニール袋を持っていると、必ず寄ってくるよね。食べ物が入っていると思うんだろうな」

鳩の夫婦は、ここに座る人のビニール袋から食べ物が出てくるところを、何度も見ているんでしょうね。
時には、ご相伴にあずかるなんてことも、あるんでしょうね。

でも申し訳ないことに、あなたたちが食べられそうなものは何もないわ。
進一郎さんが持っているビニール袋に入っているのは、薬局で買ってきた耳栓。

耳栓といっても、普通のじゃないのよ。
飛行機用っていうのがあるんですって。

私たち、明日からシドニーへ行くの。
ひとり娘が金婚式のお祝いにって、旅行をプレゼントしてくれたのよ。

パスポートを取って、日本円をオーストラリアドルに換えて、一週間分の旅支度をして。
いつもだったら絶対に選ばない、明るい花柄の水着も買ってしまった。
70歳を超えている自分にちょっと気後れして、「派手かしら」って進一郎さんに聞いたら、「シドニーの海なら地味なくらいだよ」って笑ってくれた。

準備万端と思っていたところで、マーブルカフェでお茶をしているときに進一郎さんが言ったの。
「でも飛行機、頭が痛くなるんだよな。あれだけが、つらいな」
まあ、大変。結婚して50年、私は飛行機に乗るのは初めてで、一緒にこんな遠くまで旅行したことがなかったから知らなかった。
それまで地上にいたのに突然高い高い空に行くわけだから、気圧の変化に耳がついていけないんですって。
たまに出張で国内線に乗っていた進一郎さんはいつも、あくびをしたり、お水を飲んだりしてなんとか対処していたらしいけど、てきめんに効くってわけじゃなさそうなの。

それでマーブルカフェ店主のワタルくんにその話をしたら、「専用の耳栓がありますよ」って教えてくれてね。耳の中の気圧を調整して、激痛から解放してくれるんですって。
若い人ってなんでも知ってるわ。わからないことは話してみるものね。
それで、一番大きな薬局に行って、店員さんに案内してもらって、調達してきたところ。
進一郎さんの分と、念のため私の分も。

耳栓にしてはちょっと高かったけど、これでもう、大丈夫。
何が大丈夫って、まずは「きっと大丈夫」を手に入れたことが、大丈夫。
実際に嫌なことが起きているときよりも、「嫌なことが起きたら嫌だなあ」って思う時間が本当につらいものよ。もしも耳栓をしても頭が痛くなったら、そのときはそのとき、ふたりで考えましょう。

シドニーの街もそりゃあ楽しみだけど、実は私、飛行機に乗ることにかなり興奮しているの。
空を飛べるなんて、考えただけでわくわくぞくぞくしちゃう。
あのなんにもない広大な空間に身を置くのね。
雲の間をくぐりぬけて、今立っているこの地をはるか下に眺めて。


私たちがビニール袋から何も出さずにじっと座ったままだから、鳩たちはあきらめたみたい。
階段を一段ずつ、器用に降りていく。ひょこり、ひょこり。

「ねえ、鳩ってせっかく飛べるのに、どうしてわざわざ歩くのかしら」
「地面にも、空からは見えない餌とか、いいものが落ちてるからだよ」
「いいものって?」
「それは、鳩にしかわからない」

進一郎さんは鳩みたいに首をひょいと突き出し、感心したように言いました。
「翼もあるけど、立派な足も持ってるよなあ」

言われてみれば、そう。
存在感のある筋肉、地面にしっかり着けた指、固そうな爪。
体の比率からいったら添え物みたいな小ささなのに、こんなにきちんと歩けるんだから、なんて良く出来た足。

「すごいことじゃないか、飛べるのに歩けるなんて」
なんだか満足したような表情の進一郎さん。


遠くから聞こえてくる、ジョギング中の男性の足音。二羽の鳩は示し合わせたように、ぱあっと羽を広げて舞い上がり、あっというまに遠く小さくなりました。

「鳥は空を飛んでいて頭が痛くなったら困るわね。耳栓をしようにも、耳がどこにあるかわからないじゃない」

私が冗談を言うと進一郎さんは、ふふふ、と笑いました。

「鳥の耳は、頬にあるらしいよ。音を聴く穴があるんだって」
「ええっ、そうなの?」

ほっぺに耳が。
ほんとにね、長く生きていても、知らないことばっかり。

私はふと、足元に目をやりました。
そうね、私にとってはこういうことが、「地面に落ちてるいいもの」かもしれないわ。
知らなかったことを知ったときの、ぽんと弾ける愉快な気持ち。
楽しみな旅行、「大丈夫」をくれる耳栓。
愛しいひとり娘、私の隣で「風が気持ちいいねぇ」と、のんびり目を閉じる進一郎さん。

私たちはもう、空を飛べる。はるか遠くまで行ける。
そしてこの地を、歩くこともできる。
足を踏みしめて、いちばん近いところからゆっくり見つけていきましょう。
私をまだまだときめかせてくれる、驚きに満ちたこの世界で。

Happy!
70
横浜在住の小説家です。『木曜日にはココアを』(宝島社)で第1回宮崎本大賞受賞。3月8日の発表日、時勢の考慮で宮崎行きは延期となりました。日常が戻って宮崎の皆さんとお会いできるまでの期間限定で、大賞のことや雑記を綴ります。毎週木曜日、スピンオフ小説更新。(アイコン画像:田中達也)

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コメント (2)
こんにちは。
毎回楽しく拝見しています。
若い頃に「ロマンスグレーになるよ」と予言していた進一郎さんて、俳優さんならどなたなんだろー?と妄想しております。
餃子係2020さん、ありがとうございます!
ロマンスグレーの素敵な俳優さん、何人もいますもんね~。
あれこれ想像していただけたら私も嬉しいです(^-^)
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