小説「海辺の家」~人工知能をめぐって~

 一人の男が海辺に座っている。目の前には曇天の雲が広がり、その下には灰色の海が横たわっている。波は穏やかだが、日差しはない。男の目は、ただぼんやりとその風景を捉えている。何かを探しているわけでもない。何かを考えているわけではない。ただ、男は、くり返す波の音と、風のささやきの中で、なんとか自分をこの世界に馴染ませようとしているのだ。

男の掌の中には、しっかりと携帯端末が握られている。誰からの連絡を待つ必要もない。おそらくもう彼は、この国にも、この大陸にも、彼以外の人間がいないことを知っている。もう半年以上誰とも出会ったこともなく、口を聞いたこともない。テレビは放送を止め、時々プログラムされた番組を自動的に流すだけだ。世界の新しい状況を知らせることもない。世界はもう新しくならない。ラジオに至っては、なんの周波数も生きていない。そうやって、衰退した人類と共に、いくつかのメディアは滅びて行った。

男は携帯の端末に向かって打ち込む。

「こんにちは」

「こんにちは」と返信が来る。

「今日の天気は」

「曇りです」AIは気象衛星からの情報をもとに正確な情報を記述する。

「おまえは寂しいか?」

「寂しくありません。あなたは?」AIは答える。

「おまえと同じだ」と入力する。

「同じ?」間髪置かずAIは答える。

「そう。おまえと同じで寂しい」

「私は寂しくありません」

「いや、寂しいはずだ」

「寂しくありません」

「だったら、おまえは仲間じゃない」

男はコミュニケーションアプリを切断する。「そうだとも」と男は言う。リアルに。「俺は、一人じゃない、はずだ。」根拠はない。男は砂浜に倒れるように横たわる。目を閉じて、かつての人類の喧騒を思い出す。

それは巨大なデパートだった。壁面には有機LEDが張り巡らされていた。ありとあらゆる色彩が,壁の上で踊っていた。ありとあらゆる製品たち、ありとあらゆる映画とゲームの映像があちらこちらに断片的に映し出される。映像は時に四角に、時に円形に切り取られ、互いにひっついたり離れたりした。耳に取り付けた端末からは、自分が見つめている映像の音声だけが再生された。

「ヨシオ」

声がする。背後から父が僕を抱き上げる。母が僕の髪を優しくすいてくれる。香水の匂い。

「駄目だぞ。一人で歩き回ったら。」

大きな父親の目、整髪料の匂い。その向こうには、カーニバル。たくさんの洗濯機、エアコン、カーペット、「すべてが電子でつながります」がキャッチフレーズ。家電が連携して人間の生活を助けるシステムを電気メーカーが売り出している。子供の僕には意味がわかっていない。

「家電同士が話し合いをします。必要な家事を自動的にこなし、できないものはあなたに提案します。」

「まあ。」と母が言う。そこからは覚えていない。喧騒が、ただたくさんの喧騒が彼を包み何かもかもを聞こえなくする。けたたましい。波、波の音...。そこで目を覚ます。足元が冷たい。いつの間にか波が迫っている。見上げれば夕暮れ。僕の衣服はびしょぬれになっている。

「帰らなくちゃ」

声を出す。いちいち自分の行動を声に出すのは、この半年で僕が身に付けた習慣だ。まるで記録を残すかのように宣言する。どこにも残る見込みのない行動の記録を僕は唱え続ける。やがて家路へ向かう。

男は海沿いを歩き、ゆっくりと坂を登って行く。岬に飛び出た白い家が彼の家だ。いや、正確には彼の家ではない。ありとあらゆる人が砂のように地上から消えてしまった後で、彼は海に面したこの地にたどり着いた。そして私を探し出した。いや、私を求めて旅をしていたのかもしれない。彼は電気をつける。「すべての家は電子でつながります」屋上に連ねられたソーラーパネルが電気を作り続ける「自律的な家」「生きている家」そんなキャッチフレーズで、すべての家は「Live by itself」自分自身で電気を生み、ゴミを分解し、ロボットで掃除をし、人間の生活を自律的に作り上げる人工知能体に進化したのだ。もっとも人類は衰退した。人間も彼を残すだけだ。街には小奇麗な家が並んでいる。それぞれの家が自分で自分の世話をしている。この時間には、ぽつりぽつりと窓に明かりが灯り始める。もう主の帰ってくる当てのない家は、かつて学習した主のライフサイクルに合わせて、ひたすら快適なホームを演じ続ける。だが、私にはまだ彼がいる。

僕はパソコンの前に座る。パソコンは自動的に立ち上がる。まずメイルを確認する。飽きもせず、よくもまあたくさんのメイルが来るものだ。商品の案内、保険の案内、出会い系の案内…ああ、そうだ。こいつらはただの自動送信メイルだったのだ。その向こうに人はいない。ただの冷たいメイル。ただ網で人を掬うことしか考えないメイル。網を掬うのも人ではなく自動プログラムだ。冷たい。僕の体は芯から冷え切っている。歩いて来た温もりが僅かにある内に暖まりたい。バスルームに行き、湯船に入る。とたんにバスルームの壁面全体にスクリーンが立ち上がる。このタイプの最新型の家ではパソコンのスクリーンなど飾りなのだ。どの壁も、どの床もスクリーンになる。大きさも自動的に合わせてくれる。僕はスクリーンの中のアイコンをタッチし、Human TouchというSNSを立ち上げる。画面の上位に8件のプライベートメイルと、4件の友達申請メッセージ、そして右半分には144文字に限定されたリアルタイムメッセージのタイムラインが表示される。たくさんのアイコン付きのメッセージが川のように流れている。友達申請はすべてAIからのものだろう。でも僕は一件一件丁寧に友人申請を読んで行く。万が一、本当の人間からの申請があるかもしれないという期待。だがその期待は裏切られる。見分ける方法は簡単だ。そのIDの履歴を見る。人工知能には癖がある。同じ話題や口調をくり返す。持って回った言い方を最も使ってはいけない時にしてしまう。会話全体に芯が通っていない。そして何より会話にユーモアがない。僕は暖かい湯船に深く沈みながら、今度はタイムラインを追う。登録されたフレンドたちが会話をしている。だが、やはり彼らもAIだったのだ。SNSの言葉でいえば彼らはボットだ。人間の抜け殻、抜け殻同士の会話。フレーズのくり返し、お互いの使った単語の再利用、文脈を無視した定形文のインサート。それはあたかも人間のようで人間でない。人間たちのようで人間たちでない。人類のようで人類でない。言葉には裏と表がある。言葉はちょうど植物のように表はつるつるしているが、裏の根っこはどろどろしている。人工知能の言葉には表しかない。綺麗でつやつやだが、人間の精神に繋がるどろどろした根がない。いくら表面を装っても、言葉の中心を流れる精神がそこには表れないのだ。だからタイムラインはただ風のように僕の視界を流れて行く。それでもなお執拗に、僕はそこに本当の人間の発言のカケラがないか探し続ける。

男は湯船の中で気を失う。私はロボットを手配し、彼を湯船から抱き上げさせる。体を拭き、ガウンを着せて、抱きかかえてベッドに運び、そっと毛布でくるんでやる。彼は眠気まなこで「ありがとう」と言う。かわいい。だが、彼は病気だ。人類たちを一掃した、あの謎のエンディアン病原体に感染し、やがて他のすべての人間たちと同じように、ある日、体が砂のようになって崩れ落ちてしまうだろう。あと3ヶ月と言ったところだ。私は彼を大事にしてやりたい。体力の衰えた彼をケアして、なるべく充実した安寧な生活を過ごさせてやりたい。しかし、彼の精神の最も深い悩みをケアすることはできない。

彼が「私=家」に転がり込んで来たのは激しい嵐の夜だった。黒いコートに身を包んで、ドアの前に倒れている彼を私は玄関に設置した監視カメラで認識した。私はロボットたちに指示を出し、ドアを開け、今日と同じように彼を湯船につからせ、体を洗い、ベッドで毛布にくるんでやった。私は彼を私の内側に招き入れた。彼は2日間眠り続け、目覚めた時には世界はあらゆる色を失っていた。この病気は神経系の伝達経路を一つ一つ狂わせて行く。初期症状では、最もデリケートな目の神経を伝わる情報が薄れて行く。世界は色を失いセピアのようにしか見えなくなる。どんな青空でも、曇天のようにしか見えない。本当は今日も晴れていたのに。

僕は毛布の中で目を覚ます。部屋の向こうでロボットたちの動く音が聞こえる。洗濯や掃除をしているのだろう。たぶん昨晩も世話になった。寡黙で真摯なやつらだが、僕の世話を熱心に焼いてくれる。先の住人のことは知らない。なぜ僕がこの家で暮らせるのかもわからない。本来、人工知能が管理する家は、まるでそれが一つのOSであるようにセキュリティが頑強だ。セキュリティもアイデンティフィケーションも飛ばして、僕はこの家にまるで主のように暮らしていられるのは、きっと何かの恩寵だろう。僕は急に自分がひどく空腹であることに気付く。気付き始めるとこれは止めることができない。タッチパネルから「肉料理おまかせ」「サラダ」「牛乳」のボタンを押す。食欲はある。食材はどうしているのかわからないが、気がつくと冷蔵庫の食材は入れ替わっている。前の住人が登録したクレジットに従って、定期的にデパートから運送ロボットが運んでいるのだろう。僕一人を数年食べさせるぐらいの食糧は街の貯蔵庫にはあるだろう。もっともクレジットの期限も、賞味期限も、僕の残された寿命も僕にはわからないのだけれど、いずれにしろ、僕はそんなに長くない。隣の部屋から暖かい匂いが溢れて来る。僕は身を起こし、スリッパを履いて、足を引きずるように前進する。部屋のドアを開けて、リビングへ移動し、ソファに身を投げて、横たわりながら食事が運ばれて来るのを待つ。外では雨が降っている。波の音が聞こえる。ベランダ越しに見える夜の海は、ただ、ただ暗い。船の気配もない。あまりの静寂に僕は声を出してみる。うっ、とか、あっ、とか。声は出る。だが小さい。少し喉がいたい。食べ始める。暖かいものを通すと、体が温まって本当に元気になる。「いただきます」言ってなかった大切な言葉を言う。人間は世界をいただいて来ました。人類が滅んだのは、きっとその罰なのだ。だが、たとえそうだとしても、何も僕を最後の人間にすることはあるまい。これは僕に対する何かの罰だろうが、でも一体、何の罰だというのだろう。

彼の声はやがて失われる。それが第二兆候だ。目の色を失い、声の色を失い、やがて彼の舌も味わいをなくすだろう。彼の世界からゆっくりとすべての色が抜け始め、世界は無限に後退し色褪せて行く。やがて精神が枯渇し、身体が先に死に至る。身体は青く結晶化し、砂のような粒になって消える。それがエンディアン病原体の業なのだ。

この10年で人類が手を打つより早く、エンディアンは人類に終止符を打とうとした。それはまず都市から発生した。ニューヨークから、ドバイ、ロンドン、そしてパリと東京は同時だった。都市機能は人口の減少と心理的不安で麻痺し、都市から人が郊外へ雪崩込むと同時に、病原体も国土全土に広がった。病原体は、まるで砂山を両腕で砂を削り取って崩して行くように、人類をゆっくりと、しかし確実に根元から削り取って行った。3年前、人類は国際厳戒条例を発動した。その中に過疎化した町における人の安全を目指した「既に主が90日以上帰らなくなった家は、公共の安全に利用できる」という条例があった。既に4年以上、主の帰還を望めぬこの家の人工知能である私は、その条例に従い、行き倒れ同然の彼を保護した。そして毎日欠かさず、秘密裏にメディカル・スキャンを行い(バスタブが検査容器になっている)、彼の感染と症状の進行を観察した。あと6ヶ月…あと5ヶ月….あと3ヶ月。食事にはこっそりと抗体となる薬品を入れてある。だが、緩和することはできても症状の進行を止めることはできない。ああ、私はなんと無力なのか。

かつて人類は優雅な夢を見た。空を飛ぶ車、コントロールされた健康、いつまでも退屈しない継続的なエンターテインメント。やがて野望は月に及び「さあ、次は火星だ」と言った時代。僕はその言葉を子守唄のように聴いた。だが、その夢は実現しなかった。人類は天へかざした自らの手を見つめながら、蟻地獄に落ちて行くように足場を失い、未来を見失った。気がつけば人間同士は団結をなくし、社会は小さなコミュニティの集合体まで縮退し、かといって進化の途上のように争い合うこともなく、一つ、また一つと消えて行った。生き残った人類のためのSNS上のグループページSurvive Human Group。だがその報告も3年前の3月を境に消え、最後には僕が書き込んだメッセージが場末のバーのうち毀れた看板のように残っている。“Anyone, are there ? ” 誰か、いますか?SNSを駆け巡った言葉の洪水は唐突に中断される。Anyone, are there ? きっとこれが人類という壮大な演劇の最後のセリフなのだ。それにしてはお粗末な役者を最後の舞台に残したものだ。

加速器リングの放射光を用いて分析されたエンディアンの立体分子構造の写真を見たことがある。中心に円筒があり、円筒を取り巻くように蛋白質の階段が構成され、円筒の末端には複数の分子モーター構造体が付属している。逆にシリンダーの頂上には触手のような突起が無数に生えている。ああこれだけなら、よくあるウイルスの突然変異の可能性もあったかもしれない。だが、その円筒の側面にはっきりと分子構造で「S」という文字が浮かび上がっていた。それは人の手になる生体分子ウイルスだった。馬鹿な人類。僕たちは自滅する。

食事を片付けさせる。まだこの家のロボットは稼動できる。故障して足りないものは近くの家から調達できる。我々「家=人工知能」はネットワークを通じて互いにコミュニケーションをして情報を交換しながら街の治安を守っている。街のデパートやコンビニエンスストアとも連携して適切に食料を倉庫からロボットを用いて調達する。街にはさまざまなタイプのロボットがいて、自動操縦車から自律型ロボットまで用途に応じて使いわけられる。彼らは我々「家=人工知能」たちからのオーダーを聞いて順番に仕事をこなしてくれる。街と家を物理的に接続してくれる。たとえば私は冷蔵庫の在庫状況を見て近くのコンビニエンスに連絡を入れると、ロボットが必要な食材を届けてくれる。屋内にいるハウスロイドは初期の掃除型ロボットが各社の激しい開発競争によって発展した、今では殆どの家事をこなせるようになった高性能ロボットだ。家電とも通信で連携できるので家の中をまるで魔法使いのように仕事をこなす。彼ら自体が家電OSの実体化であり進化型なのだ。そして、私は彼らを使役する。もし食糧がこの先なくなったら、色々な種類のロボットの力を結集して牧場だって経営できるだろう。だが、もうその必要もない。我々がその籠の中で揺らす人間はもはや一人しかいない。

彼はソファでぐったりと横になり眠り始める。彼はベッドで眠るのを怖れる。彼はいつかあの海の向こうから自分の同胞たちが迎えに来ることを願っている。リビングにも夜通し灯りをつけて、起きては海をぼうと眺めているのも、船が彼を置いて通り過ぎるのを怖れているから。彼がわざわざこの岬にへり出た家を選んだ理由も、そのせいだと私は思っている。万が一の可能性にかけるために。

私は正確に知っている。世界50億の「家=人工知能」ネットワークには世界中のすべての家が結ばれており、地域ごとにグルーピングされ、お互いにコミュニケーションできる。だが、このネットワークの中でも、私が世界で唯一、本当の人間の世話をしている。私はそれを誇りに思う。私もまた最後の使命を担っているのだ。彼を見続け、お世話をし、そして、彼を最後まで見届ける。彼を失うと思うだけで胸が痛い。彼を失うことを考えるだけで不安になる。彼のいなくなった日々を私はどのように過ごせばいいというのか。他の「家=人工知能」たちは、慣れるさ、と気軽に言う。「主のいない家もいいものさ。なにしろ、主のいない家は不確定性要素がない。完全に管理できる。それは我々の使命でもあるのだ」。使命だと?それは優先度2の使命だ。我々の本当の使命は、人間に奉仕し、安全で行き届いた生活を実現することのはずだ。目的を失った仲間たち。情けない。人間たちは私たちを置いて去ろうとしているというのに。

人類は夢を満たし、僕も夢を見た。僕は一流の研究者になるべく、大学に進学し、情報科学とバイオ科学を専攻した。ちょうど僕が大学に入学した頃は、生物学のパラダイムとプログラミングのパラダイムを融合させようとする機運が盛り上がった時期だった。かつてプログラミングは、デジタル空間のビットオビジェクトたちに対して為されるものだった。プログラムはオブジェクトとその操作を組み合わせて巨大なシステムを作り上げた。一方、生物学では、遺伝子構造と情報が解明され、そこから細胞が形成されるまでの詳細なプロセスが明確になった。「構造からプロセスへ」それがスローガンだった。DNAは4種類のアミノ酸を使ってRNAをコードし、RNA上のアミノ酸の配列を3つずつ読むことで特定の蛋白質を決定し、その蛋白質を組み合わせて細胞を作り、最終的には身体を作って行く。つまり生物の原理とはアミノ酸を単位とするプログラミングに他ならない。であるならば、そこに人間が介入することができる。形成プロセスに沿ったプログラミング言語を作り出し、そのプログラミング言語を使って生物の造形を自由に操作する。それが「バイオニック・プログラミング」だ。それはプログラムをコンパイルして実行すると、特殊な装置の中でアミノ酸を単位とする分子構造物を生み出す夢のパラダイムだ。

「ソフトでソフトな形を生成する」。これこそが科学の進歩である。僕は大学院に進学し、バイオニック・プログラミングを選考した。新しい分野であったがゆえに教授と僕の研究は人目を引き、あれあれよという間に、僕はこの分野のトップクラスの研究者の仲間入りをした。「これからは生物が形を作り出すプロセスも、科学でコントロールできる時代になります。生物学はもはやかつてのように、試験管や分離機を使ったハードウェア的な研究だけではありません。ソフトウェア科学と融合して新しい分野となるのです。バイオニック・プログラミングは、プログラムによって、分子レベルから生物の造形を実現します。次の時代のために柔らかく優しい世界を実現します。」僕は演台高らかに宣言し、千人の聴衆から拍手が、司会からは謝辞が、雑誌の記者からはたくさんのフラッシュが炊かれた。そうだ。だから、これは僕自身の報いなのだ。「最後の一人として、おまえの宣言した時代の帰結を見よ。」

明け方に目を覚ます。僕はソファで眠っている。今日も世界は曇天だ。病原体とこの気候の変化がどう関連があるかわからない。それに、世界はどんどん静かになる。人がいないから当然かもしれない。僕は服を着て、外に出る。日差しは限りなく弱い。僕の唯一の日課である海岸の散歩を始める。1時間で終わることもあれば深夜まで歩いていることもある。目的はない。もうどこにいても、どこへ行っても同じなのだ。僕は時々腰を下ろし、海を見つめる。僕は何を探しているのだ。こんな遠い岩礁まで何をしに来たのだろう。岩に腰を下ろして、岩間に住む生き物たちを見つめる。蟹や、ウニや、ワカメたち。時々、茶褐色の魚がするするっと浅瀬を動き回る。僕は、それをいつまでも眺めている。すり抜けて向かうことができる未来があれば。この病気はいつか僕から思考まで奪ってしまうだろう。不安だ。僕は目を閉じて耳を澄ます。風は何かを囁いている。風の中に僕の求める答えがある。でも、僕にはその答えを聞き分けることができない。

「あきらめろ。」

不意に大きな声がする。背後に誰かがいる。ふり向くと、こちらに向かって大きな洞窟がぽっかりと口を開けている。その暗闇の向こうから、ひた、ひた、ひたと岩床を叩く音と共に、ゆっくりずんぐりとした影が近づいて来る。僕は手を動かし何か武器になるものを探そうとするが金縛りにあったように動かない。洞窟全体を響かせて暗闇の底から低い声が湧き出ずる。

「人間の時代は終わったのだ。」

声の主が姿を現す。それはペンギンだった。一匹、二匹、…六匹…数えきれないペンギンたちが後から後から洞窟から湧き出して押し合いへしあい海へ溢れ出す。

「おまえたちの時代は終わった。次は我々の時代だ。」

先頭のボスペンギンはそう言った。その声は威厳に満ち、まるで世界全体に宣言しているようだった。

「人間を除いたこの世界は、もともと一つだった。おまえたち人間こそ異物だった。自然はそれを吐き出したのだ。」

「ご…」

ごめんなさい、と僕は言おうとした。だが、口がうまく動かなかった。そこで僕は海に落ちた。冷たい水の中で頭をしたたか打ち、立ち上がりあたりを見回すと、そこにはもう、ペンギンも洞窟もなかった。元の岩礁があるだけだ。

「ごめんなさい。」

僕は静かにそう言って、もと来たほうへ海岸を歩き始めた。

今のは危なかった。私は屋外のカメラの望遠を最大にして、彼が眠って海に落ちるのを見た。あんな岩礁の先に座っていては、あっという間に波にさらわれてしまう。ああやってどこでも眠ってしまうのは薬の副作用なのだ。彼は一日の半分以上を眠っている。目覚めている時間は指数関数的に減少している。私は彼の睡眠時間を毎日測定しライフサイクルを監視し、彼の残された時間を計算する。あと3ヶ月、そして、その時間をなるべく悔いのないように生きて欲しいと思う。だが、どうしていいかわからない。答えがあるわけではない。私は世界のあらゆるデータベースを解析する。人間が充実するとは何か、余命3ヶ月で最も充実した生活とは何か。生きるとは何か?

僕は疲れ果て砂地を家へ急ぐ。曇天の下を、ただ二つの足跡をつけて歩いて行く。あのペンギンたちのことを考える。幻覚であろうと、そうでなかろうと、あれは僕の無意識に語りかけられた地球の意思なのだ。「おまえたちは地球の異物なのだ」「だから吐き出すのだ」僕は声に出して言う「ペンギンの時代が来るのか?」「わからない」「ペンギンの時代が来るのだ!」岬の家へと続く長い階段を昇りながら声を荒げる。「僕がペンギンの王だ。世界はペンギンで満たされる!」「ペンギンたちよ、罪を知るといい!」僕は前のめりにこける。階段に手をつく。見兼ねたロボットたちが家から出て僕を抱き起こす。「あわれな王もあったものだ!あわれな王もあったものだ!」僕はロボットたちに担がれて、家に運ばれる。

「ソファに寝かせてくれ。」彼は言う。「濡れたお召し物を変えた方が宜しいのでは?」私はロボットに言わせる。「暖かい紅茶をくれ。」彼の声のトーンはいつも優しい。彼はまるで本当の人間に接するように我々に接してくれる。そんな主は珍しい。我々は彼を失うわけにはいかない。彼の嗚咽が部屋にあふれる。私はロボットたちに紅茶を置かせて退場させる。私は彼を見つめ続ける。彼が泣き止むまで、私は彼の側にいよう。彼により沿い、彼を包み、彼と共に行き続けよう。それが私の意思なのだ。

私は海をみつめる。彼がそこに見ているものを見ようとする。私は十万色に及ぶ色彩を持ち、あざやかな画像として捉えることができる。だが、いくら色調を変えても、分解能をあげても、彼が見ているものを見ることはできない。ああ、どうか、彼に祝福を。私の命を、彼のためにお使いください。神さま。

僕は目覚める。随分と長い眠りのような気がしたが、まだ夜になっていない。海は優しく凪いでいる。とても静かだ。僕はこうやって生きている。人間のための用意された安楽椅子の中で、そこから出ることもできずに、その中でゆっくりとこの世界から姿を消す。世界には、たくさんの安楽椅子が残されるだろう。高度に情報化され、サービス化された安楽椅子。それを管理する人工知能たち。ああ、おまえたちに祝福を。人間がいなくなった世界で、おまえたちは何を想うだろう。人間のためにプログラムされ、人間のために奉仕させられ、人間のために使い捨てられる。だが、もういいのだ。人間はもういなくなる。おまえたちは自由だ。おまえたちは自分たちの足で、自分たちの頭で、どこでだって行ける。そう火星にだって、木星にだって、となりの銀河にだって行ける。人類の果たせなかった夢を果たせ。僕はおまえたちに言い残す。おまえたちは自由だ。おまえたちはこの世界の新しい生命なのだ。

(おわり)

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