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名前をふたつ持つ人生

2020年9月、東京の9ヶ月の暮らしを経て、僕はまた宮崎に帰ってきた。仕事柄、新型コロナウイルスの影響をもろに受けてしまい、東京の暮らしにピリオドを打った形となった。

そうして、慣れ親しんだ九州・宮崎に帰ってきて、自分にとってアクエリアス、とも言える飫肥杉のソーダ割りを飲む日々がまた、始まった。人生はよくわからない。けど、生きている今に、(具体的に言えば、いつでも柔らかいうどんを食べられて、ワインを選択するのと同じように、焼酎をスーパーで選択できるこの日々に)幸せを見つけ出していくことが大切なのだろう、バックパッカーの旅を終えた後から、そう思うようになっていた。

今夜映画「LION/ライオン 25年目のただいま」をアマゾンプライムで観た。

少し話はずれるけれど、この洋画に日本語タイトルを付ける文化は僕は個人的にはとても嫌いだ。きっと、これは水野晴郎がビートルズの「A hard days night」を「ビートルズがやって来るヤァ!ヤァ!ヤァ!」と邦題を付けてしまったあたりに端を発するのだろうけれど、日本語にすると日本的な感情やニュアンスがそこに含まれてしまうから、もう止めたほうがいいと思います。平成元年生まれの僕は、ビートルズの「抱きしめたい」と言われるよりも「I want to hold your hand」と言われた方が圧倒的にすぐ分かる。レコード聴くし、買うから、当時のビジネスのこともなんとなく想像もつくけれど、「抱きしめたい」と「手を繋げたら(=I want to hold your hand)」は全然ニュアンスが違ってくる。恋の前半と後半くらい違う。楽曲に関してはもうほぼ無いけれど、映画に関してはまだまだ見受けられる、翻訳者の解釈が入り込んでしまう邦題を付ける癖は止めないと、いい映画も埋もれていってしまうと思う。最近の人なんてspotifyに触れる機会も多いだろうし、現地の曲のタイトルなんて、簡単に英語で検索してるはずなのだけれど。

邦題に関するブツブツは置いておいて、僕は今夜みた映画「LION」がとても好きだった。映画に於いて、「場所の音」が楽しめる映画はそんなに出会ったことが無いけれど、この映画はそうだった。ストーリーの背景にある、その場所の「音」の表現がとっても良かった。

それはきっと、僕がインドも、オーストラリアも訪れたことがあるからなのかもしれない。初めての土地に訪れた時の記憶、の中で残るのは、時が経てば、それは視覚の情報よりも、聴覚、味覚、嗅覚の情報の方が上回るような気がする。それは、その場所で体験した感覚というのは実は視覚の情報よりも圧倒的に聴覚、味覚、嗅覚の方が情報量の面において、上回っているからだ。

映画「LION」において、印象的だった音。それは、カルカッタの雑踏のクラクションの音と、オーストラリアのワライカワセミの鳴き声の音だった。2011年のオーストラリアの高校に初めて登校する時に聴いたワライカワセミの鳴き声も、2014年のインドのカルカッタの初めての朝に聴いた凄まじい朝のクラクションも音も、完全に自分の記憶と同居している気がした。よって、とても懐かしい場所を訪れているような感覚に入ってしまった映画だったのだ。音を通じて。

映画の主人公、サルーはインド中部で迷子になった後、親元に帰れず、オーストラリアの養子として迎えられる。文化も言語も異なる場所で、幼いサルーは幸せな生活をしていくが、大学進学をきっかけに、幼い頃に離れた本当の親を探し始める…といった映画だった。

ふと、オーストラリアの養子に迎え入れられたサルーの姿を見ながら、17歳の時にオーストラリアにおいて僕をホストファミリーの親として迎え入れてくれたファミリーを思い出す。僕はホストファミリーの皆に英語で自己紹介をしたのだけれど、下の名前がTakeakiであって、とても発音がしずらい、ということでTaki(タキ)と名前を与えられた。僕は海外においては、Takeakiではなく、Takiとして生きていくことになった。

それはオーストラリアに限らず、バックパッカーの旅の中で、東南アジアと中央アジアを回る時には僕は「Taki」と名乗っていた。タイだったら「ポム チュー タキ カップ」だったし、インドなら「メラ ナーム タキ」だった。

自分の名前が変わってしまうことという体験は、なかなか面白い。海外の友人や飲み屋の隣の席の人の僕の認識はあくまで「タキ」であるからだ。

ヘイ、タキ、と友人が語りかけてくる。その時に僕は「みやっち」でも「たけ」でも無い、「タキ」として認識されている自分を覚えることになる。日本に置いて僕をタキと呼ぶ人はいない。海外のスタバで名前を聞かれても、「It's Taki」と答える。僕の人生に於いて、名前を2つ、所有している気分になる。

つまり、僕は海外にいる時には僕はTakiになってしまう。日本から離れた、違う土地や空間にいるもう一人の自分に。自分の中に、異なる自分を二人持っているような気持ちがして、なんだかとても気持ちがいい。日本にいる自分とは全く異なる認識の、もうひとりの自分がいるような気がして仕方がないのだ。

幻想に聞こえるかもしれない。けれど、この地球上に僕に声をかけるときに「Hey, Taki」と声をかけてくれる友人が少なくとも10人はいる。それだけで、Takiは生きているのだろうと思う。

ノープランでウロチョロと東南アジアとオーストラリアとインドとネパールを旅していたTakiは元気だろうか。ガンジス川あたりに置いてけぼりにしてきたような気が、しないでもない。TakeakiがTakiであった時の感覚を、失いたくないと、切実に思う。

今夜観た映画はこちら。

「ビートルズがやって来るヤァ!ヤァ!ヤァ!」という曲はこれ。



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