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「うっせぇわ」ado の俯瞰図

 社会人は、流行もチェックしなきゃなんないし、経済の動向も把握しなきゃなんない。仕事には純粋に向き合わなきゃね。はぁー、そんなことどん口が言いよんのかい。そして、そんなこと言う上司は、飲み会のルールには厳しく、上司にはへこへこ、口移しのような二番煎じの言葉を吐く。口臭ぇし、何回もおんなじ武勇伝しか語んない。ぶくぶく太りやがって、そのつまんない顔面、くらわしたろか。

 ここにリアルはあるんか?とアイフルのCMの大地真央ばりに問うてみる。ここにあるのは、「ステレオタイプ」な会社の上司像。今時、下手なドラマでももっとリアリティをもって描かれる。共感とは難しいもので、あるあるって思わせなきゃなんないと同時に、リアルな具体でなけりゃならない。平板なステレオタイプは、えてしてリアリティを欠く。

 敵は、一切合切凡庸なあなた。まあ昔から若者は、「つまらない大人にはなりたくない」なんて叫び続けてきたんだから、現代にも脈々とその流れは受け継がれっているってだけのこと。でもそれが大事なんだよね。理不尽でつまらない大人や社会に対するストレスをぶちまけること。「うっせぇわ」というキャッチーな叫びが、中毒的にハマっちゃう。

 凡庸な大人に対する「私」は、「天才」であり、「模範人間」であり、「頭の出来あが違う」のである。「肥大した若者の自我」なんてこれもステレオタイプの言葉を貼り付けそうになるほど実は「私」もありきたりな若者だったりする。

 ここに描かれる「私」の心情は、不安定で被害妄想的で攻撃的である。その裏返しとして、自分を選ばれた天才と称し、鎧を纏う。そして自分もあんななりたくない大人になってしまうのではないかという不安を抱える。

 一見、ステレオタイプなつならない大人に対して不満をぶちまけているようにあるけど、実は未来の自分の姿に恐れを抱き、もがき、叫んでいるのではないだろうか。他者に向けた怒りではなく、ベクトルは自分自身に向けた不安なのである。

 具体的なリアリティを欠くステレオタイプの表現は、そのための手段だった。頭でっかちでイメージや知識だけで世間像、大人像をつくり、あたかも正義を貫く勇者のように攻撃を仕掛ける若者。ただそれは、若者批判ではなく、社会への不安、軽蔑する大人に自分がなっていくことへのためらい、不安がリアルに描かれているだけだ。

 ちょっと違った視点で、違った俯瞰図を描いてみると、そんなとらえかたもできるのかな。

 


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