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#135切り干し大根を煮る。

このnoteに何度も泣き言を書き連ねながらも、身体は少しずつ元気を取り戻しつつあります(今週の水曜日にレントゲンを撮り、骨の状態を確認したら、いよいよ本格的に腕を動かす自主トレを始める予定です)。左腕を挙上することは出来なくても、軽く物に添えたりすることはできるので、台所に立って夕食の副菜を作れる日も増えてきました。

週末の朝、娘のミドリーはバイトに出かけ、テル坊は昼近くまでゴロゴロ眠っているので、戸棚からガタゴトとお鍋を取り出し、切り干し大根を煮ることにしました。一年ほど前に超簡単なレシピを見つけてからは、いつもその手順で作っています。

だし汁500ml、切り干し大根30g、人参一本、さつま揚げ一枚(これの代わりに油揚げ一枚)、砂糖大さじ2/3、しょうゆ大さじ2
材料はたったのこれだけです。だし汁といっても本格的なものではなく、顆粒のほんだしをささっと一振りし、麺つゆを少し足す程度です。

人参は細めの千切りにして、しょうゆ以外の全ての材料を鍋に入れ、強火で少しグツグツさせてから弱火にして3分、そのあとしょうゆを入れて更に7分煮込めば出来上がり。油揚げと大根から旨味がたっぷり出てくれるので、調味料も少なくて大丈夫なのです。

今のわたしにとって一番ハードルが高いのが、人参の千切りです。左手を100%使いこなせない中、用心しいしい包丁を握ります。トントン、トトトン。意識を手元の包丁と、オレンジ色の人参、白いまな板だけに集中させて、気分だけは「プロの料理人」かもしれません(笑)。

ああ、料理するってこんなに静かな集中のプロセスだったんだなあ。

当たり前に食事を準備していた時には、自分の内側がこんなに静かになっていることに気づきませんでした。一日のうちの、それほど長くない時間、こうして台所に立って、それほど特別なご馳走でもないメニューを、それほど時間をかけずに作る。主婦の仕事の一部として、それを淡々とこなしているつもりでいましたが、本当はそのささやかなプロセスをこなすことで、自分の心の軸みたいなものが、しっかりと支えられていたのだなあと感じます。

自分にも何かしらの役割がある。

外に出て仕事をするにしろ、家の中で家事をするにしろ、人って「役割」をもっている自分をほどよく意識できる時、背筋かシャキッと伸びるものなんですよね。

今のわたしは夕食後、お皿を下げるのも、食器を洗うのも家族に頼っています。少し手伝いは出来ても、そんなに動けないのです。テル坊はお皿洗いが苦手で、水をジャブジャブ使いすぎるので、毎晩ミドリーが洗ってくれます。はじめのうちは、すごくかったるそうに(笑)、疲れた様子で皿洗いをしていた彼女ですが、今はちょっと違います。本人には「面倒くさいし、できればやりたくない」という気持ちがあるかもしれませんが、後ろ姿が違うのです。諦めというか「自分がやるしか仕方ない」という覚悟みたいなものが漂っています。

お皿を洗って拭いて、片付けた後も、シンクの中を掃除して、周りに飛び散った水を台拭きでこすって。水回りが一通りの作業が終わった状態に戻ると、そこでようやく「台所の仕事はおしまい」という空気が流れます。わたしはその間、ミドリーの背中をぼんやりと見つめながら食卓に座ってみているわけですが「仕事をしている人間の後ろ姿というのはうつくしいものだなあ」と言葉にすることもなく思っているのです。

だれも代わってくれる人のいなかった時は、わたし自身、面倒くさいと思っていた台所の後片付けを、今は自分でできないことが何となく悔しいというか、夕ご飯という行為そのものが最後まで終えられていないような気分になります。片付けまでがわたしの夕ご飯なのです。

さあて。後は何ができるかな。キャベツを切ってレンジにかけ、よく洗ってから水気を切り、冷蔵庫で冷やしておく。そしたら食事の直前に別の具材を足してサラダにでもなるかな。

「えー、またキャベツの千切りサラダなの?」
ミドリーのブーイングが聞こえてきそうです(笑)。




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