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096.「甘えてもう一歩」

波の音は胎内で聴く音と似ているらしい。

「それって雑学?」そう問うと「そんな意味じゃないよ」と少しムッとした横顔が見える。

海に生とか母性の意味合いを持たせるなよ、と思いながらもその言葉を全力で否定できる根拠も持たず、なんとなくうなづけるような感覚を持ちながら、視線を海へと戻す。

「そうかも知れないね」わたしの言葉が聞こえたかどうか、彼もまた海を見つめている。

感情には波があってもてあましてしまうのだ。
確かに好きなのに、ひとりで居たいと思う気持ちだったり。
この人がいないと生きていけないなんて思いたくないから、乱暴に手をふり払ったり。

寄せては返す波、それは過去を思い返しては今ここに戻ること。
感情だってそうだ、今ここに、現在に。

***

たくさん本を読んで恋に憧れていたわたしが育ってきた自宅。
その自宅は取り壊し、弟一家が住むための家へと建て替えられた。

思春期のやりばのない気持ちを受け止めきれなかった扉や、ベッドで寝転んで読む漫画本。お風呂場でエコーきかせながらの歌声。
更地にするための取り壊しは容赦なく、決行される。そこに思い入れなどない、ただの作業なのだから。

眉間に皺をよせて何か言いたげな父の横顔を思い出す。
他人に手渡すものではなく息子に受け継ぐ、大きなギフトであろう。
それでも形あるものがぺしゃんこになる光景は、どこにも行き場のない思いが、そこかしこに漂うようでもあった。

「わたしが男だったらどうだったろうね」呟き声は父には届かない。

届かなくて良いのだ、これは。もしも兄弟だったら、この風景はなかったかもしれないなんて思うのは、現実にはない物語なのだから。

***

「海が見たいの」

その言葉にいつでも応えてくれる。
足先を波につけて振り返ると、やさしく微笑む顔。
「足だけだよ」と声をかけても、静止は効かない兄弟が転がるように海へと走る。

「兄弟ってさ、ずっと兄弟だよね?」「ん?あたりまえでしょ」
「夫婦もずっと夫婦だよね?」「君が望む限り、それは永遠だと思うよ」

そんな彼の言葉に、いつまでも甘えているのだ。




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