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#1 マシュー・アンダーソン

Matthew Anderson(愛称 Matt)
1987年4月18日生まれ 
身長:208cm
ポジション:OH/OP  高校まではMB、大学からOH、OPはUSAで2013年から
(OHとOPではコートでの動きのシークエンスが違うので、潜在意識や無意識の動きを取り戻すのにスイッチして最初の2週間〜1ヵ月はすごいストレスフル、と話している)
現所属先:Modena Volley(🇮🇹 スーパーリーガ)
出身大学:Penn State University(PSU)
※3年生終了後プロとして韓国リーグへ、大学では3年間ホルトとチームメイト、ラッセルは一緒にプレーした期間はないけれど後輩になる
(写真はFIVBより)

USAVページ:
https://www.teamusa.org/usa-volleyball/athletes/Matt-Anderson
Wikipediaページ:
https://en.wikipedia.org/wiki/Matt_Anderson_(volleyball)
Instagram:
https://www.instagram.com/mja5041/?hl=ja
Twitter:
https://twitter.com/MattAnderson_1
Facebook:
https://ja-jp.facebook.com/MattAndersonVB/

アンダーソンにとってバレーボールはファミリースポーツ(母方祖父はバレーボールでシニアオリンピックに出場、生涯を通して競技を続けた、姉2人も大学でプレーしていた)で馴染みはあったけれど、子どもの頃はアメリカでは典型的な野球、それからサッカーをやっていた。アメリカンフットボールにもトライしてみたけれど好きになれなかったそう。また、お母さんによると、バスケットボールもやろうとしてみたけれど、コーチに好かれなかったかこの身長では足りないと思われたのか歓迎されなかったとのこと。野球は12歳まで、その後はサッカー。サッカーはGKになり、ずっとゴール前に立っているばかりなのがつまらなくてやめることに。
その後、友人に誘われて15歳からバレーボールクラブに入ることになったとき、近くにあった2つのクラブのうち料金もレベルも高い方ではないクラブを選んだけれど、そこのコーチが現在ラッセルの義父にあたる(ラッセルの奥さんのお父さん、PSUの卒業生)ロバート・ピアースだった。彼と出会ったことがその後の自分のバレーボール人生に大きな影響を与えたとのこと。

アンダーソンの代表デビューは2007年(20歳)。2008年、アンダーソンが大学2年生時に当時USA代表監督だったマッカーチョンから電話がかかってきた。おぉ、北京五輪に出られる!と思ったけれどそうではなく(笑)代表のセカンドチームで練習してほしいということだった。さらに、USAと日本のバレーボール界はいい関係を築いていたため、当時アンダーソンを含むUSAの選手8人が日本へ行って、5日間滞在し、日本の北京五輪予選に向けた練習を手伝ったとのこと。
その際にエージェントが何人か練習を観に来ており、アンダーソンも日本のクラブチームに声をかけられた。だが、当時在籍していた大学スポーツを統括するNCAAの規定が厳しく、在学中にプロ選手として活動できないという決まりがあったため、迷っているうちにその話は流れてしまった。でも、アンダーソンのマネージャーが韓国のクラブチームとコネクションがあったことで再び韓国でプロになれる話が浮上、大学を3年生終了時点で中断しプロの世界(現代キャピタル・スカイウォーカーズ)へ飛び込むことになった。

ちなみにアンダーソンによると、2008年の代表はniceではなかったと(笑)。とても競合的で対立的で、誰もが五輪の12名の座を勝ち取るために競い合っていた。その中心にいたのがマッカーチョンで、こっちの選手にはひどく怒鳴ったかと思うとあっちの選手にはソフトに話しかけまるでベストフレンドのように振る舞っていたとのこと。
当時の自分には信じられなかったけれど、今なら理解できる。各選手のプロセスに応じて彼は必要なことをしていたと。

高校生から本格的にバレーボールを始めた当時は、自分はいいバレーボール選手だとは思っていなかったそう。だから大学から声がかかったときも嬉しかったし、マッカーチョンから誘われたときも、エージェントから話があったときも嬉しかった。オリンピアンに、いい選手になりたくて目の前の機会をその都度掴んできた、と下の動画で話している。

🇰🇷現代キャピタル・スカイウォーカーズには2008年〜2010年まで在籍
その次は🇮🇹Callipo Vibo Valentiaに2010年〜2011年
🇮🇹Casa Modenaに2011年〜2012年
そこから🇷🇺Zenit Kazanへ移籍し2012年〜2019年まで在籍
(アンダーソンがZenitに移籍する際、本当はユアントレーナが来る予定だったという話も。Zenitはユアントレーナと契約するはずだったが、ユアントレーナの奥さんがロシア行きに難色を示し話が流れ、代わりにアンダーソンに白羽の矢が立ったとか ↓ )

プロとしてのキャリアをスタートさせてから1年3ヵ月後の2010年1月(22歳時)、アンダーソンのお父さんに腎臓がんが見つかり急遽摘出手術を実施。その後はまた家族の時間を過ごせると誰もが思っていたのだが、手術直後に起こった心臓発作によりお父さんは急逝してしまう。アンダーソンは韓国での試合後に姉からの "兄に電話するように" というメッセージを読み、兄に聞かされ知ることとなった。でもすぐにはその事実を受け止めることができず、家に戻ってお母さんを抱きしめたときに初めて涙を流したそう。
お父さんはアンダーソンがバレーボールを始めてからほとんどの試合を観戦に行っていた。大学のホームゲームでは、お父さんが "We are!" と叫ぶと観客みんながそれに続いて "Penn State!" と応じるPSUの応援チャントがいつもお父さん主導で繰り広げられていたほどで、アンダーソンの一番のサポーターだった。

とても大事な存在だったお父さんが亡くなったことは、アンダーソンにとって大きな喪失となる。そのとき既に休むことを考えたけれど、今戻らないと二度と戻れなくなることを心配したお母さんが励まして、アンダーソンはプロ生活に戻ることに。現代キャピタルとの契約を2ヵ月早く切り上げてその後は代表の練習に力を注いだ。それからどこか疲れを知らないような感じになり、とにかくバレーボールに励む毎日に。

2012年、ロンドン五輪に25歳でチーム最年少として出場。お父さんに捧げた右脇腹のタトゥーとともに、お父さんを頭に留めながら戦ったが、準々決勝でイタリアに3-0で負けて敗退。この試合は今まで一度も観返したことはなく、今後も観返すことはないだろうとのこと。それくらい乗り越えるのは難しいことと。
ロンドン五輪はフィジカル的にはとても充実していたが、メンタル的には次の試合に向けて回復させることができないまま出続ることになり、最後には消耗してしまっていたとのこと。

2014年、Zenitではロシアリーグ優勝、アンダーソンはMVPを受賞し、その後の代表シーズンでも7月のワールドリーグで優勝。だが、結果を残せば残すほど、その裏で様々な考えやプレッシャーが常に頭から離れなくなり、「バレーボールをやらなくては、やらなくては」という思いから練習を切り上げることができなくなり、だんだん眠れなくなっていった。
10月29日、突然バレーボールを休止しZenitとの契約を解除したいと申し出。それはチームとの軋轢によるものではなく、ロシアの地によるものでもなく、(その年にはいとこが亡くなったことも重なって)疲れていること、家族と過ごしたいこと、鬱病であることを告白した。

https://zenit-kazan.com/index.php?rus/news/&id=4406

しかしその後Zenitは契約を解除することなく、復帰の道を残して安心して療養できるように配慮してくれた。アンダーソンは復帰の時期を決めずに地元のバッファローへ帰り、冬の間そこで家族や友人と過ごした。
のちにアンダーソンは「プロ選手として過ごしていく中で、いつの間にか自分のアイデンティティを失ってしまっていた」と述懐。プロバレーボール選手として見られること、まわりから求められていることと自分自身との乖離が大きくなってしまった。家族や友人との間に以前よりも物理的、精神的に距離ができてしまい、冷たい人間になってしまった。自分で自分をコントロールできなくなってしまった。そうなりたくはなかったのに。お父さんが生前「私たちを喜ばせるためにやらなくていい。おまえが幸せでいることが私たちをも幸せにするのだから。正しい理由があってやめたいと思ったなら、明日にでもやめたらいい」と言っていたこともあり、もうこれ以上続けることはできないと、いったんバレーボールから離れることにした。

地元で過ごした2ヵ月の間、アンダーソンは臨床心理士に助けを求め、2013年から代表監督になっていたスパローと交流を続けた。スパローは、当時代表チームでスポーツセラピストだったアンドレア・ベッカーやアンダーソンの家族とともにアンダーソンを支える重要な役割を果たした。
あるときバッファローを雪嵐が襲った。5〜6日間雪が降り続き辺り一面はすべて雪で覆われた。その最中、姉と一緒に兄の家へ行った帰り、誰もいない道を2人でしばらく歩いていたときに、アンダーソンはある種の閃きのようなものに出会う。それが最初の明るい兆しだったとのこと(詳しくは下記2段目の記事参照)。

家族や友人とのつながり、心身の健康を取り戻したアンダーソンは、2014年の終わりにZenitへ戻ることを決意する。
翌年の2015年、Zenitでは2シーズン連続ロシアリーグ優勝、CEV Champions League(CL)優勝を果たす。代表でもワールドカップ(WC)で優勝、MVPも獲得。スパローは「彼のキャリアの中で最高の夏」と述べている。その後の活躍は周知のとおり。

(↓プロバレーボール選手であることの厳しさや大変さがより詳しく書かれている)

アンダーソンといえば、タトゥーと自閉症へのサポート活動も欠かせない。
「左肩の大きな木はファミリー・トゥリー。おじ、おば、いとこ、親戚すべて。自分たちは大きなねじれた木で、ここに刻んでいることでいつでもどこにでも一緒に連れて行くことができる」。
その下の4つのバラはきょうだい(姉3人、兄)。
右の脇腹には家族の紋章と、お父さんの生まれた日と亡くなった日が刻まれている。
そしてサーブのとき、ボールを持った右手をぐっと前に突き出した際に見える右手首内側にあるジグソーパズルの青い1ピースは、自閉症啓発のシンボルであり、姉の息子であるトリスティンに敬意を表したもの。トリスティンは自閉症で、そのピースの下にはトリスティンのサインも入っている。
アンダーソンはバレーボールを通して自閉症について世界に広く知ってもらいたいと考えたブライアン・ハーンからの提案に賛成、Matt Anderson Spiking For Autismに出資して、バレーボールとバスケットボールの大会を実施(毎年11月初旬に開催、今年で6回目)し、そこでの収益をバッファローにおける自閉症のための諸サービスに寄付している。

右手首の内側のタトゥーも、自分がサーブを打つたびに観ている人たちがそれを見ることになって、自閉症への関心をより持ってもらうことができると考えてのこと。

タトゥーは年々増えているけれど、それぞれの意味については先程も載せたこちらをどうぞ。

また、アンダーソンの卒業大学であるPSUは、いつも体育館に来て息子の試合を盛り上げてくれたアンダーソンのお父さんを讃え、彼のことをいつまでも記憶に留めておくために、その名前を冠したマイク・アンダーソン賞を設けている。ホームで開催される試合のたびに、PSUの選手から1人選ばれて賞が与えられている。

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Modenaへの移籍は、そろそろ新しいステージへ進むときだと感じたことと、翌年の東京五輪を見据え特に代表でもセッターであるクリステンソンと一緒にプレーすることが大事だと思ったから、とのこと。
(一部では、2019年5月に婚約したジャッキー・ギラムが男の子を妊娠、来年結婚と出産予定ということも今回の移籍に影響しているのでは、という声もある)

「五輪でプレーするのは多分来年の東京が最後になるだろう」とインタビューで語っていたアンダーソン。Modenaでのこのシーズンと東京五輪での活躍に期待したい。