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絵も語り口も水のように柔らかく:安西水丸『東京エレジー』全話再読

(⚠️注意⚠️ 文章の性質上ネタバレ等を含みます。未読の方はご注意ください)

 安座水丸が、和田誠や山藤章二とならび、イラストレーターとして昭和・平成を代表する人物であることは言うまでもないが、マンガ家や小説家としての顔はあまり知られていない。マンガにせよ小説にせよ、あのゆるやかな線を持った画風・作風は変わらない。
 『東京エレジー』では自身の青年期と、戦争の影が薄まり張って発展していく過程にある昭和の東京の風景を、落ち着いた視点で描写している。


東京エレジー①
 春から別の私立高校に転校した、作者安西自身をモデルにしたであろう、小西のぼる青年(安西の本名は“渡辺昇“である。エッセイのイラストを担当し、親交の深かった村上春樹の小説にも“ワタナベノボル”なる人物が登場している)が出会う同級生やビルで出会ったバーのマスター、友達の兄と言った同性との出会いを描いている。
 最後に出会う同級生の兄である勝一は、相撲の高砂部屋にスカウトされたこともあるという大きな体躯を生かしてチンピラたちの喧嘩を止める。仲裁に割って入った側ながら、<「親不孝もんめが」>と涙を流す感情の高ぶりに、熱さとも温かみとも違う体温を感じる。


東京エレジー②
 犬塚という悪いやつでは無いのだが、血の気が盛んすぎる友人と、彼と対をなす静かな女性ふたりをめぐるエピソード。引いているわけでも無いし、むしろ好意的に思ってはいるけれど、自ら近付く感じではない独特な対人関係が描かれている。こういう感覚は大人になるにつれてどんどん無くなる。
 P31の、西日の後楽園の風景のコマが好きだ。東京ドームにはよく行ったし、最近まで近所に住んでいたこともあって、個人的になじみのある場所というのもあるが、風景は変わっていても街の雰囲気のようなものは変わってないんだなあ、ということを感じられるので。


東京エレジー③
 表題作4つのうち、もっとも「エレジー」を感じさせる。ケンカの仲裁で涙を流した勝一の弟、右京の家に再び招かれるが、そこで前々回に出会ったバーの女性の自殺遺体を発見してしまう。前々回階段ですれ違った彼女は、元野球選手の恋人と居り、生命感のある色気を持って描かれていただけに、この再登場は最初に読んだ際、かなりショッキングだった。


東京エレジー④
 根底に「肉体」がテーマになっている作品。若い男に軍服を着させる嗜好の男、花やしき近くのポルノ劇場(これはストリップ小屋の看板が飾ってあるだけだった)、そして女房を2人も持つ男らに、夏の東京で巡り会う。10代後半のころに感じた、あの大人になりかけのころの憂鬱とも好奇心とも違う感覚を思い起こさせる。
 途中にテレビに映るプロレスラーの力道山が描かれている。彼の豊かな力こぶは、ストーリーの本筋とは独立しているものの、この作品のテーマを象徴しているように見える。


天誅蜘蛛<てんちゅうぐも>
 これは幼少期の風景を描いた作品。「天誅蜘蛛」なる紙芝居と、その周囲の人間の乾いた風景を描いている。
 先程の『東京エレジー④』が「肉体」の作品なら、この作品は「目つき」の作品だ。『天誅蜘蛛』の主人公の鶴千代の中性的な美しい眼差し、学校に来なくなった同級生の女の子の物憂げな目、風邪をひいて病床に横たわりつつも、ちらりと外の様子を気にする子供らしさ。そうした「目つき」がノスタルジーを醸し出す。


きよし
 きよしという転校していった友達と、きよしの畳職人をしている父との出会いと別れを描いた短編。<きよしはいつも大人しかった>と言うように、きよしの表情は終始変わらない。だからといって無愛想というわけでも無ければ、別れに際していつもと同じ顔で涙を流していくコマは、さみしくも暖かい描写である。


北風放浪
 北風というタイトル以上に、冷ややかな印象というか、さらに静けさをも感じる。サッカーと、女性との初めての房事という肉体的な場面が描かれているが、やはりどこか突き放した印象があり、落ち着いたエロスを漂わせている。
 エミ子という踊り子の裸の背中が見開きのコマで描かれているが、細くしなやかな線の美しさは、水丸作品の唯一無二のものだ。


ライオン
 常次郎という、元相撲取りの兄貴分との交流を描いた一作。体躯はデカイが、知恵はあまり回らず、どうもお天道様の下を歩けない生き方をしてるようだ。しかしながら情の深さも併せ持つ人間くささがまた、業の強いところである。
 ラストシーンは常次郎と小西青年の千倉駅での別れだが、実は私も行ったことがある場所だ。この作品で描かれていた時分から半世紀以上経過してると思うが、駅舎の周りやホームの雰囲気はずっと変わってないんだなとしみじみ感じたのは、『東京エレジー②』の後楽園と同じである。


ウインド・ブレーカー
 マラソン大会に出場することになったのぼる青年と、年上の女性たちとの交流を描いた作品。静かな海の水面、走っているさなかの汗の吹き出し方、ラストシーンの雨の中、ウインド・ブレーカーを着たまま疾走するのぼる青年の後ろ姿と、海、汗、雨とそれぞれの「水の流れ」が作品の表情を色付けている。


暗室
 私の世代では、幼稚園児のころには既にデジタルカメラが存在し、「暗室」という空間を実際に使ったことは無い。だがそれでも古い映画などで見るたびに、暗闇の中でフィルムを現像するという、妖しげな美しさにちょっと憧れもした。
 そうした「写真とエロス」を表現した作品だと思う。エロ写真を撮る友人と、暗室での女性との逢瀬。今はスマホで簡単に写真が撮れてしまうが、写真、フィルムが貴重だった時代の空気感ありきの作品では無いだろうか。



あとがき/「モノクロームの風景画」
  著者が東京で過ごした青年期を振り返る文章を4ページ収録している。当時の赤坂や乃木坂あたりの風景を、スケッチと共にゆったりと知ることができる。


汽車
  小学生ののぼるが汽車の絵を描き、学校で人気者になる。そして亡くなった父との記憶に、時折唐突に全裸で佇む女性が出現し、虚とも実とも感じる不思議な手触りの漫画となっている。この物語の進みの速さ、エッジのぼやけたタッチは「昔の思い出の夢」という感じだ。だが不快感やグロテスクさのようなものは皆無で、むしろ読了後に心地よさすら感じる。

 マンガやイラストに対して、「この人の絵は好きだけど、表現したい物語にそぐわない」と感じることが少なくない。無理に過激なストーリーをつけて、受け取る側である我々の感情を、強引に動かそうとする、マンガを含めたイラストに添えられたストーリーをいくつも見てきた。
 安西水丸の作品は、イラスト、小説、マンガ、全てに於いてそうした齟齬とは無縁だった。小説にはニューヨーク時代での思い出を語った『手のひらのトークン』という、回顧録的な小説があるが、一枚のイラストも挿入されていないにも関わらず、あのしなやかな線で描画された光景が広がっていた。
 水丸というペンネームは、「水」という漢字を安西が好んでいたからだそうだが、絵も語り口も水のように柔らかく、さわやかな味わいである。

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