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渡邊庄三郎の”新作版画”と”新版画”

今回木版画をつくるにあたって色々迷うところがあり、明治末に浮世絵再興を目指した新版画の創始者、渡邊庄三郎について調べています。その中で、新版画の誕生の経緯が面白かったので紹介してみます。


「新作版画」と「新版画」の違いとは

結論から言うと新作版画は、近代化による印刷技術の更新でメディアとしての商売が成り立たなくなりつつあった版元制度の維持のため、新しい需要を探り出そうと輸出用に作られた商品でした。

それに対し、新版画は「工業製品」であると見なされた分業制木版を芸術にまで高めようとした庄三郎の理想の木版画への追求といえます。その時代背景には西洋アートの流入から変容する芸術への価値観、また分業制木版画には「自刻自画自摺」を標榜する創作版画運動(1907年頃~)との軋轢の歴史も存在しました。

参考:戦前の木版画制作と浮世絵―浮世絵研究雑誌における版画論争より―


”新作版画”の誕生
庄三郎は初め版元として浮世絵の複製版画制作を仕事にしていたが、複製に代わる新しい版画の制作を思いつき、1907年の春、高橋松亭に依頼してオリジナルの新作版画を試しに作った。

当時は新しい印刷技術の流入によって浮世絵版画制作が衰退し、版元、絵師、彫師、摺師の協同による版画制作、版元制度が成立し得ない世情となっていた。

そのため、庄三郎は国内実需用途ではなく輸出用としての新作版画を企画した。


これが売れるか確認するため夏の軽井沢で避暑に来ていた外国人に販売し、その結果好評だったため新作版画の制作に移ったという。分業制の職人による協同制作には莫大な資金が必要とされ、庄三郎はまず、この輸出用新作版画で経済的基盤を確立しようとした。

結果、この新作版画の成功が日本伝統の版元制度を救い、新版画の誕生に大きな影響を与えることになる。

”新版画”の誕生
新版画は1915年の春オーストラリア人の画家、フリッツ・カペラリの絵を木版画化したのが始まりで、

「私の目的としては、飽くまでも肉筆画に隷属せず、また旧型にも囚はれない創造的分子に富み、且つ芸術を本位とした新しい板画を出版しようと」

考えたと述べている。

フリッツ・カペラリ【黒猫を抱える裸女】1915年 ※下記から絵引用


浮世絵の伝統を継ぎながら、新時代の意匠を凝らした画風、新技術を用いた版画制作、さまざまな題材(人物、花鳥、風景)と、ここで庄三郎は新版画の雛形を揃え、理想の新版画を制作するのに相応しい絵師を探し始める。

初めは新作版画も新版画も大きく区別されることは無かったようだが、大正六年~七年になる頃には、新作版画と新版画は明確に区別されるようになり、新作版画は誰でも買えるお土産用版画であるという制作目的が徹底されるようになった。

結果的に、庄三郎は伊東深水、橋口五葉、川瀬巴水らと出会い、理想の新版画制作が始まる。

参考:別冊太陽 川瀬巴水決定版


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浮世絵製作/版元&彫り担当/WEB空間の画像作品を浮世絵由来の木版画(新版画)にする事を夢想してます。

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