きみを捨てる神と拾う神と

高速バスに乗るときはキリンジ、ときめている。とくに夜行。知っている曲でも知らない曲でもいい。ほかのだれにも出せない、やすらぎそのものみたいな声と、へんてこな歌詞。それらが、外側のさざめきをきれいに遮断してくれる。

きょうは弾丸で京都へ向かって、到着一時間で完全に目的を達成してしまい、残りの時間はとにかく歩いていた。おしゃれなカフェに行くでもなく、名物を食べに行くでもなく。あ、でもひとつ思いもよらない収穫があった。たまたま目的地の近くに「漢字ミュージアム」というのができていたことだ。

そこで二時間弱くらい漢字にまつわる本や辞典を読んだり、漢検の問題を解いたり、いろんな漢字にまつわるゲームをやったり、万葉仮名のスタンプで自分の名前を紙に捺したり、壁の展示を読んだり、柱にプリントされた五万字の漢字を眺めたりして遊んだ。夏休み中とはいえ平日だったので、子供たちがそこそこいるくらいで、割と自分のペースで遊ぶことができた。漢字好き、本好きの方は行くと楽しめるかと思う。入館料は大人800円。

併設されているおみやげ屋さんで芙蓉の練り香水を見つけ、初めてみたのでつい買ってしまった。練り香水は液体とくらべて安価なのでひそかに集めている。いまもっているものでは鈴蘭が気に入っています。新大阪駅の改札の外にあるお店で買った。あとは金木犀が欲しい。
ほかには絵葉書を三枚と、千社札(煙管の横にキンエンシマス、と書かれたものと、おじいさんの上に無益、と書かれたもの)を二種類。こういうものは気をぬくと買い過ぎてしまうので厳選を心がけた。

煙草は名古屋で一本、京都で一本。こうして積極的にさがすようになって気づいたのだが、京都のほうが昼日中に煙草が喫えるお店がわりと簡単に見つかる。名古屋で探すほうが骨だ。野ざらしの喫煙所はあるのだが、店となると名古屋は難しい。

ところで、今日のタイトルにも使った、捨てる神あれば拾う神あり、ということわざが好きだ。あんまりふだん思わないけども。似た意味で、蓼食う虫も好き好き、というのがあるが、こっちのほうがよく思い出す。たとえばわたしがものすごく苦手な人に対して非常に慕わしげに話しかけている人を見たときなどに、「いやー蓼食う虫も好き好きやなー」と心の中で唱えるときがよくある。文章にするとしゃらくさいが本当の話だ。こっちのほうが現実に即している。

何が言いたいかというと、いまの自分の状況に、捨てる神あれば拾う神あり、というのはかなりしっくりくるなあ、ということだ。あっちでいらんと言われても、こっちでは待っとったよと言われる、ということ。まあ考えてみるとわたしの存在自体が基本的にそんな感じというか、完全に軽んじられるか強烈に排除されるか熱烈に受け入れてもらえるかのどれかに振り切れていることが多いので、新しい場所に行くときや新しい人と会うときは、さてどのパターンだろう、と緊張しながら考える。その場に「ハマる」といいなあ、と思う。排除も軽んじられるのも、苦手だ。すごく。

ともかく今日は京都までなじみの神さんに会いにいき、とりあえずいまわたしこんな状況で、あと努力でなんとかなるところは自分でなんとかしますから、運とか縁とかいうとこの後押し頼んますね、ということを話したのだった。退職を宣言してからのこの四ヶ月、意図的に、力任せに断ち切った可能性や繋がりも少なからずあって、そのたびにそれに関わる人への罪悪感に苦しんできたけども、いまのところ、「そう決めた」ことへの後悔は見当たらない。それは、ほかならぬ自分が決めたからだと思う。自分じゃないほかの人に決められたことだったら、たぶん耐えられなかった。自分で決める、ということが自分にとってこんなに重要だと思わなかった。まだまだ知らないことだらけだ。

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