して欲しいことと、して欲しくないこと
子供の時、学校の道徳の授業でこんなことを習いませんでしたか?
「自分がされて嫌なことは、他人(ひと)にしちゃいけない」
この言葉、当時は何の違和感もなく聞いていました。
でも、もしかすると、論理が破綻していて、愛情のカケラもない言葉なのかもしれない。
子供たちの倫理観が何十年もの間壊されているのでは・・・、と思っています。
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僕がして欲しいことと、仲間がして欲しいこと
例えば、僕と仕事の仲間はどうでしょう?
僕は絶えず成長したいし、今まで出来なかったことにも挑戦していきたいです。
失敗しても全然OK!どんどんやってこう!!と思っています。
しかし、仲間はそうではないかもしれません。
介護現場のメンバーとの仕事では、数年前までそれがわかりませんでした。
「社会人なんだから、成長したいでしょ!」
「ん??みんな成長したいでしょ?」
「失敗とかそりゃするでしょww次のチャレンジしようぜ!!」
今考えると、最高にうざいですね(笑)
そういうことじゃないんだよ!!
って昔に戻ってど突きたいですね。
でも当時は分かんなかったんですね。
というか、わかってはいたんだけど、それを「成長したい!」と思えるように啓蒙することが僕の仕事だと思っていたんですよね。
お互いの認識の違いに気づくには時間を要しました。
半年とか一年とかでしたかね〜
仲間には仲間のペースがあるし、そもそも目指しているものが違ったり(存在自体のミッションは”幸せに働きたい”だったのですが、ビジョンが少し違っていたりしました)、今までの経歴や今の生活状況も違います。
僕は結婚しているもののかなりリスクを取れるけど、そうじゃないメンバーもいる。
僕はありがたいことに四六時中好きな仕事のことを考えるけど、メンバーの中には、夜遅く帰ってくるご主人のケアをしたり、子供との時間を大切にしたり、みんなそれぞれに「やりたいこと」が違ったんです。
僕がして欲しいことと、妻がして欲しいこと
仕事だけじゃありません。
家族・夫婦の関係の中でもありますね。
僕のやりたいことや仕事や趣味、妻に一緒にやってもらったりすると嬉しいんですよね。
仕事の相談なんかもよくしています。
知識に関することもそうですが、マネジメントの相談なんかも、妻は偏見なく話を聞いてくれるので話しやすいし、”僕がどうしたいか”を常に中心に置いてくれているので、僕自身で結論を出す時にかなり助けになっています。
一方で、それだけ僕もやってもらっているわけなので、妻が中心となってこなしてくれている家事を手伝おうと思うわけです。
野菜を切ったり、洗い物をしたり、火の元の作業を手伝ったり。
でも、断られるのです。
「そんなことするんなら、本読んだり、仕事したりしてていいよ」とのことだそうです。
てっきり、家事を手伝って欲しいもんだと思っていました。
そうではないようです。
口では、「あなたがやると余計に時間がかかるからw」とは言っていますが、多分そうじゃないんだろうなあと思います。
僕たちの夫婦関係でいうと、「目的と役割」がポイントになっているんだと思います。
結婚前にココはめちゃくちゃ話しました。
要するに、妻が僕にして欲しいことは、「一生懸命楽しそうに仕事をする」ことなのでしょう。
”子供ができればきっと変わるよ!”とのお声をよく頂きますが(余計なお世話なw)、まあ、そりゃ変わるでしょうね。
でもそれは、環境の変化だけでなく、自分自身の中にある愛情の形が変わったり、自分や周りのメンタリティーの変化にもよるので、「基本的に変化するもの」だと思えば、身を任せられるんじゃないかと思います。
変化は自然の摂理ですからね〜
変化しない方がおかしいと思っています。
「自分」と「他人(ひと)」とは?
ここまで書いてきた内容でなんとなくお気づきかと思いますが、自分には自分の「やって欲しいこと」「やって欲しくないこと」があり、仲間や家族には、それぞれに「やって欲しいこと」「やって欲しくないこと」があります。
自分の考えていることは、きっと相手も同じように考えている。
みんな1つの規定された存在なんだ。
「自分がされて嫌なことは、他人(ひと)にしちゃいけない」
という言葉の根底には、そうした強い先入観と同調圧力が存在しているように思います。
「相手の考えていることがわからない」
最近そんな相談を受けました。
とても頭のいい若い男の子です。
好きな異性や会社の同僚、家族の考えていることがわからないそうです。
僕が彼に伝えたのは、「そんなことは当たり前だ」ということです。
僕たちはエスパーじゃないし、機械じゃないんです。
「人間」なんです。
相手が何を考えているかわからないから面白いんです。
苦しいんです。
だから、相手のことが頭から離れなくなるくらいに考えて考えて行動しては失敗したり成功したりするんです。
それは時に自分や相手の心に大きな傷をつけてしまうこともあります。
金属やプラスチックなら、一度傷が付くと二度と消えません。
でも、僕たちの心の傷は、治すことができなかったとしても、「補うこと」はできます。
あの時の悔しさがあるからこそ、今頑張れる。
あの時に愛せなかったからこそ、今目の前にいる人を愛せる。
人間の特殊な技能です。
「過去を書き換えること」ができるんです。
適切な表現は・・・
「自分がされて嫌なことは、他人(ひと)にしちゃいけない」
こんなことを学校で教えられていることに、寒気すらします。
本来子供という感受性の豊かで、才能に溢れ、大人の顔色すら伺える存在に対して、伝えるべきは「相手が何をしたいのかめちゃくちゃ考えて、自分がそれに対して何ができるのかを考えなさい」だと思います。
太古の昔に、人間が2人以上になった時から、それは運命付けられています。
相手との対話なしに進歩も発展もありません。
自分のされて嫌なことと、相手がされて嫌なことは違います。
だから僕たちには言葉があり、文字があり、技術があります。
心があります。
心というものは非常に厄介で気分屋です。
正確な数値で測れないし、客観的にわかるアウトプットを出してくれません。
だから、心は心でしか読み取ることができないようになっているんです。
本当に神様はすげーなと思います。
もし神様に会えたら酒を奢ってあげたいです。
二杯まで奢ってあげたいです。
人口が増え続け、企業は指数関数的に成長続けられる時代では、盲目的に規定可能な数値を伸ばすことで「快楽」を得られました。
しかし、今はそうではありません。
画一的な人間は機械やAIに取って代わられます。
だってその方が正確だから。
人間が人間たる所以を考えれば、次の世代に伝えられることが変わってくるでしょう。
未来の子供達よ!
俺たちを踏み台にして、楽しく生きろ!!
*
<終わり>
シニアの方々が、主体的に・楽しく生活し続けられるよう、頑張ります!少しでもご協力頂けると幸いです。