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【エッセイ】愛と信仰

 最近、アニメ『十二国記』を見るのにハマっている。
 小野不由美さん原作で、もうすぐ新刊が出るって話題になっていたやつ。私くらいの世代だと幼い頃に読んだという人も多いようだけど、恥ずかしながら原作は読んだことがなかった。小学校の図書室にはなかったからかな。
 そしてNetflixでアニメを視聴していたところ、第7話で、ぐっとくる台詞に出会った。

主人公の中嶋陽子という女子高生が異世界に飛ばされた先で、他人に裏切られ、心からの善意で救ってくれた人に対しても疑心暗鬼になっていたところで、吹っ切れるシーン。

「善意でなければ信じられないか! 相手が優しくしてくれなければ、優しくしてはいけないのか!? そうではないだろう。私が相手を信じることと、相手が私を裏切ることとは何の関係もなかったんだ。そうだ、私は一人だ。だから、私のことは私が決める! 私は誰も優しくしてくれなくても、どんなに裏切られたって、誰も信じない卑怯者にはならない!」
(中略)
「世界も他人も関係ない! 優しくしたいからするんだ! 信じたいから信じるんだ!」
アニメ『十二国記』第7話

 救われたことを受け入れ、人を信用することを決意する主人公。BGMもあいまって、胸をわしづかみにされる。

 これを聞いて思い出したのが、大学時代の恩師が話していた「信仰は対価を求めた時点でそれは信仰ではなくなる」という話。
 恩師はカルヴァンの二重予定説を例にしてわかりやすく説明してくれた。
 つまるところ神様に救われるかどうかは生まれた時点で決まっていて、どんなに信心深く過ごしたとしても救われないかもしれないし、どんなに悪いことしたって救われるかもしれないっていう、身も蓋もない話。
wikipedia:二重予定説

 けれどそれこそ本当の信仰であると恩師は語っていた。「信じても救われないかもしれないけど、それでも神を信じるのが本当の信仰である」と。
 「救われるから信じる」なんていうのは、ただの対価を求める行為で、本当の信仰心ではない。

 その点において、愛も信仰もよく似ている。
 人を好きになるのも、人を信じるのも、それが返されるからするわけではなくて、自分がしたいからするだけ。

 それは「あなたが幸せなら、私はそれで幸せなの」と片思いの相手を思いやる、ように言い聞かせる、遠くを見つめて陶酔している少女の哀愁とは似て非なるものだ。
 もっと現実的で「諦念」に近い。

 なにせ他人だって神だって、この世のすべての自分以外のものは、何もかもがままならないのだから。
 人は思い思いに、好きに生きている。自分が何よりも大事で、自分の思惟に従って生きている。それは当たり前のことだ。
 でも、自分もしているのだから、他人を咎めることはできない。誰もが、自分でこうと決めたことは誰にも覆されたくないのだから、おあいこなのだ。たとえ裏切られたりしたって、憤る資格など誰も持ち合わせてなどいない。
 人間は誰しも、自分勝手だ。

 それを認知していながら、なおも他人を信じたい愛したい、と思うのは、自分が勝手にしていることで、自分がそれを選んでいる。信じないほうが楽だとわかっていても性根が優しくて、信じてしまう場合もあるかもしれない。
 報われるとは限らないのに、「仕方がないな」と困ったように力なく微笑みながら、自己選択の責任を抱えて、それでも愛す。強くて弱くて、悲しくて優しくて、孤独で不毛だ。

 だがせめて、自分がそうしたいと望んだのなら、自分勝手に信じ、愛そうと思う。
 いいんだ別に、自分勝手に信じる分には。それを咎める権利だって、誰にもありはしないのだから。

 私は勝手な感情を抱いて生きる。だから、どうかみんなも勝手に生きて。

 

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