【小説】もうひとつ星が流れたら

 前日に降った雨は少しだけ水の匂いを残して、澄んだ空気の夜を導いた。

 その日僕は、いよいよありとあらゆることが嫌になってしまって、溜まりに溜まった仕事もそこそこにして、帰路に着いていた。暖房の熱にぼんやりと浮かされた身体には、冬のはじめのひんやりとした外気が心地よい。
 今日も今日とて東京の街はばかみたいに人が多く、街中も電車も帰宅ラッシュで混み合っている。たとえ早く帰ってもいいことはないんじゃないかと、早くも後悔の念が生まれ始めるが、これで会社に戻ったら僕は一生自分を許せなくなるだろう。僕に枷をはめるのは、いつだって自分なのだと、自覚しているから。

 電車に乗り、つり革を掴みながら「せめて今日くらいは思いきり自分を甘やかしてやろう」と考え始めたけれど、疲れきった脳は考えることを拒否しているようで、ろくに思いつかない。
 慣れ親しんだ1DKの孤独の城に早く帰りたい気もするし、帰ったときの虚無感が恐ろしくて帰りたくない気もする。
 どこかに寄って奮発して食べる飯も、湯船にたっぷり湯を張った熱い風呂も、流行りのアクション映画のレイトショーも、挙げてはみるが「どれも違う」と心の奥底から悲痛で小さな叫び声がする。否定するばかりじゃなくて、建設的な意見も出してくれよ。
 はやく、はやく決めないと、最寄駅に着いてしまう。そう焦れば焦るほど、思いつかない。 

 電車の混雑はひと駅進むごとに増し、近くの若いカップルの会話がイヤホン越しにも聞こえてくるようになった。
「ねぇ、今日は流星群の日なんだって」
「じゃあ早く帰って一緒に見ようか」
「えー、でも寒いかも」
「寒くないだろ、ふたりで見ればさ」
 甘ったるい雰囲気に嫌悪感を抱きながらも、流星群か、と思わぬひらめきがあった。一生に一度くらい、流星を探して空を見上げてみるのもいいかもしれない。なんでもいいから、いつもと違うことがしてみたい。なんでもいいから、日々ゆるやかに磨耗していく自分の心を救ってほしかった。
 ふと、電車の行き先を告げる電子パネルを見上げると、終点駅に見慣れない駅名が表示されていた。毎日乗り慣れた通勤の電車を、いまさら乗り間違えたのかと焦る。だが、電車内のアナウンスをよく聞いていると、どうやら別の路線に直通するようだった。どちらにせよ最寄駅は通るので、いままで気にしたこともなかった。どちらにせよ東京を横断する中央線の終点は、東京の西の果てなのだろう。
 そこなら星がよく見えるだろうか。

 自分の家の最寄駅を通りすぎ、一時間以上電車に揺られ続けるのは新鮮な気持ちだった。仕事帰りとは思えない、小旅行のような楽しさがあった。乗客が徐々に減っていくのを見て、なぜだか嬉しくなる。もう電車の中には、ほとんど人がいない。
「ご乗車ありがとうございました。次は終点ーーーー」
 車掌のアナウンスを聞きつけると、疲れたように目を瞑っていた乗客たちが頭を上げる。
電車を降りて改札から出ると、まず音がないことに気づく。
 小さなロータリーに一台だけ止まったタクシーはひたすら客を待ち続け、コンビニもない駅前では立ち止まる人は誰もいない。
 同じ駅で降りた数人は足音をほとんど立てずに、路地の闇に消えていく。背後の駅から聞こえる電車の発車アナウンスだけが、妙に大きく響く。
 音がしんしんと吸い込まれる雪の日に似ているけれど、少し違う。都内より凛と冷たい空気が、張りつめた無音を生み出している。

 大きな建物が周囲にないため空は広く、暗い。
流れ星を見るなら長期戦になるだろう。かろうじてあった自販機で温かいコーヒーを買い、バス停のベンチに腰かけて、改めて空を見上げる。

 天体写真でしか見たことがなかった星空が、眼前に広がっている。数えきれないほどの星がある。その中でも強く輝く三連の星を見つけて、オリオン座だ、と気づいた。昨日の夕飯も覚えてはいないのに、小学生の頃に学んだことは意外と覚えているもんだ。

 星空を見上げ続けていると、不思議な気持ちになる。またたく、というのだろうか、ちらつく星々はしっかりと目で捉えることができない。なんとか捉えようとして凝視し続けていると、目が眩み、座っていても体制が崩れそうになる。
 でも、もしここで椅子から転げ落ちても、誰も笑う人はいない。タクシーの運転手がこちらを見ていなければ。
 そう思うと、嬉しいような悲しいような気持ちが込み上げてきた。人と関わらずに済む安心感、自分は何をやっているんだろうという不安感。自分を評価する者などいない開放感と、寄る辺ない気持ち。自由と孤独。
 ずっとこの気持ちのままいたいような、いたくないような。

 20分ほど空を眺めていただろうか。東寄りの空にすっと一筋、明るい星が流れた。
 星のまたたきが流れ星に見えた気がすることは何度かあったが、それとは全く違う、強く明るい光だった。
 流れ星を見られたことが思った以上に嬉しくて、また流れないかと空を凝視する。またたく星に眩まされ、何度もまばたきをする。
 こんなに強くなにかを求めたのは久しぶりだ。求めるのは、期待するのは、疲れるし、寂しい。やめようと思ったのは、誰がきっかけだったか。

 でも、星空に期待するくらいなら許されるだろうか。願い事などないけれど、もうひとつ星が流れたら、救われる気がするんだ。


[終]


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