誰かのためだったら諦めない~日本講演新聞

日本講演新聞は全国の講演会を取材した中から、為になることや心温まるお話を講師の許可をいただいて活字にし、感動と元気を勇気と希望を提供する全国紙です。

「目標」と「目的」は、とてもよく似た日本語だが、意味は全然違う。目標とは「○○に向かって」であり、目的とは「○○のために」だ。

 卒業式のとき、来賓として招待される教育委員会の先生や、校長先生のお祝いのメッセージの中に、「卒業生の皆さん、これから明確な目標を持って生きてください」という話をよく聞くことがある。

 もちろん明確な目標を持つことは大事だ。ただ、目標だけあって、目的がなかったら、さまざまな困難にぶつかったとき、安易にその目標を断念してしまうことがある。しかし、目標と同時に目的を持っていたら、それがとても大きな力になる。このことをクロスカントリースキーの日本代表選手、新田佳浩さんが教えてくれた。

 新田さんは、岡山県西粟倉村という、冬場は雪の多い山あいの村に生まれた。家は代々続く米農家だ。

 3歳のとき、おじいちゃんが運転する農機具のコンバインに左手を巻き込まれ、肘から先を失った。以来、障害者としての運命を背負うことになる。

 翌年の4歳からスキーを始めた。小学校に入るとクロスカントリースキーに夢中になった。3年生のときに初めて参加した地元の大会で優勝。その後、県大会でも優勝するなど、小学校卒業するまで4つの優勝トロフィを手にした。

 しかし、中学になって壁にぶち当たった。両手でストックを使う健常者の選手に勝てなくなったのだ。最初の挫折だった。中学3年のとき、スキーをやめた。

 転機は高校1年のとき訪れた。2年後に迫った長野パラリンピックの関係者が出場を勧めに来たのだ。健常者と競ってきた新田さんは、障害者スポーツに興味を示さなかった。しかし、関係者に見せられたビデオに釘付けになった。新田さんと同じ左手のないドイツの選手が障害者とは思えない速さで滑っていた。

 元々実力のあった新田さん、長野パラリンピックでは8位、翌年の世界選手権で優勝、そしてソルトレイクパラリンピックでは銅メダルを獲得した。

 4年後のトリノパラリンピックでの金メダルは確実視されていた。そのためにスタッフは、新田さんの身体のハンディを科学的に分析し、腰の高さ、膝の角度など、右手一本でも健常者並にスピードが出るフォームを3年かけて作り上げた。確実に金メダルに向かっていた。

 そして迎えた3度目のパラリンピック、トリノ大会。競技中、考えられないアクシデントが起こった。バランスを崩して転倒してしまったのだ。片手なのですぐに起き上がれなかった。大敗だった。

 トリノから自宅に戻った新田さん、家にひきこもってしまった。引退も考えたが、たくさんの仲間から励まされ、もう一度やろうと立ち上がった。そのとき、目的を見失っていたことに気付いた。目標はいつも「金メダル」だった。しかし、何のための金メダルなのか忘れていた。

 家にはおじいちゃんがいた。自分の運転するコンバインで、可愛い孫が片腕を失った。事故直後、息子であり、新田選手の父親・茂さんにおじいちゃんはこう言った。「この子と一緒にわしは死ぬ。自殺する」。その後もずっとおじいちゃんは自分を責め続けてきた。そのことをいつしか新田さんも気づくようになる。

 トリノを目指したとき、金メダルを取っておじいちゃんに掛けてあげて、「おじいちゃんは俺にとって最高のおじいちゃんだよ」と言ってあげることだったことを思い出した。 

 「目標は金メダル、目的はおじいちゃんのために」を胸に、新田選手は4度目のパラリンピック、バンクーバー大会に挑んだ。29歳になっていた。

 そして、10㌔コースと1㌔コースで、2個の金メダルを獲得し、凱旋した。実家に戻った新田選手、92歳のおじいちゃんの首に2つの金メダルを掛けた。

 何かに挑戦しようとするとき、「誰かのために」という目的があると、人は諦めない。すごい力を発揮する。きっとそれが愛の力だからだろう。

(日本講演新聞 2012年1月30日号 魂の編集長・水谷もりひと社説より)


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