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赤紙を受け取った乙女たちがいた~日本講演新聞

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兵庫県小野市の開業医・篠原慶希さんからバーコードのない一冊の本が届いた。自費出版されたものだろう。

 同じ町に住む御年95歳の治居冨美(はるい・ふみ)さんの本である。恥ずかしながらこの本を読むまで、戦時中、召集令状(赤紙)を受け取った女性たちがいたことを知らなかった。

 冨美さんは言う。「“明日があるから”なんて思えない時代でした」と。そして「大げさではなく一秒先も考えることができなかった時代に、今日を懸命に生きることがどんなに素晴らしいかを知りました」と綴っている。

 91歳になった平成28年、冨美さんは衝動的にペンを執り、半生記を書き上げた。タイトルを『今日を生きる』とした。

 1枚の赤紙で戦地に送られたのは男たちだけではなかった。日本赤十字社(日赤)の看護婦たちにも、それは来た。

 冨美さんが赤紙を受け取ったのは、昭和18年4月10日、18歳の時だった。北海道北見の日赤看護婦養成所を卒業したばかりだった。

 あの頃、看護婦の卵たちは従軍看護婦に憧れていた。卒業生の中から成績優秀な5人が選ばれた。その中の1人が冨美さんだった。5人は心から歓喜した。赤紙には「4月14日、札幌集結」と書かれてあった。

 冨美さんには、70年経っても忘れられない日がいくつもある。同年4月13日もその一つ。

 その日、故郷・礼文島(れぶんとう)から10時間かけて母親(48)が、9歳と13歳の2人の妹をつれて札幌の宿にやってきた。礼文島の村長が「生きて帰ってこられるか分からない。出征前の娘に会ってこい」と、小樽まで特別船を出してくれたのだった。

 赤飯、海苔巻き、生菓子、当時としては手に入りにくいご馳走が並んだ。食べながら冨美さんは涙で母の顔が見られなかった。一瞬目が合った。母の瞳も真っ赤に充血していた。

 夜は4人で枕を並べた。冨美さんは母の背中に顔をつけ、両手で妹たちの手を握って寝た。いつまでも涙が止まらなかった。

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