平たい世界

「世界がのっぺりとして見えるんです」
ハルカは自分の見えている世界を訴えた。
空は新聞の嫌な見出しが切りはりされているかのように憂鬱で、そもそも建物や車も折り紙で作ったように平坦に見える。人の顔の見分けもつかないし鏡に映る自分がどうも違うように見えるのだと。
母を名乗る人はそれを聞いてどうやら悲しんでいた。スクールカウンセラーを名乗る人も困っているようだった。
でも、ハルカにはわからない。のっぺりとした世界で人のようなものがウネウネと動いている。自分以外が全て紙の上にあるようで気持ちが悪かった。
世界が崩壊し始めたのはいつだっただろうか。ハルカに自覚はない。ただ、きっかけは確実にあった。
ハルカは高校に入学してすぐ放送部という部活に所属した。ゆるくて簡単な部活だと思っていたが強豪校だったらしく休日も登校をすることを迫られた。1週間のうち休みは1日もなかった。体が弱かったせいもありハルカは半年もしないうちに根を上げた。ハルカは言った。「部活を辞めさせてくれ」しかし部活の顧問はそんなハルカを見て罵倒をしたのだ。根性なしだと!......後から聞いた言い分だとハルカに才能があっただとかそう言うことだったらしい。ある日、ハルカは気づいたのだ。自身を罵倒している顧問の声が聞こえなくなっていることに!それはハルカにとって嬉しいことであった。部活を休めると思ったし、何も言われないのは本当に心が安らいだ。そして何も言われなくなったから部活を辞めたのだ。
ハルカは勉学に励んだ。そもそも高校生というものは勉強をするのが仕事である。真ん中以上の成績だったが少しづつ成績が伸びていった。
高校2年生になった時、クラスメイトが少しよそよそしいことに気づいた。
そしてハルカは自身の持ち物が少しづつなくなっていることにも気づく。その多くはキーホルダーやシャーペン、消しゴムなどだった。教科書がなくなったことはなかった。ハルカはぼんやりと物を落とす癖がついているのかな、なんて思っていた。
ある日、クラスメイトが言った言葉を聞いた。そのクラスメイトはきっとハルカにはきかせるつもりがなかった言葉だったのだろうが、ハルカには聞こえてしまった。
「ハルカをいじめんのやめろよ」「はぁ?してねーし」「お前らがハルカの物取ってんのも知ってんだよ!」「ショーコあんのかよ」
ハルカは隣の教室に駆け込んだ。突然駆け込んできたハルカに隣の教室の生徒たちは驚き、戸惑っただろう。
その日だった。その日から突然世界がのっぺりとしはじめたのだ。
部活の顧問からの罵倒とクラスの真実。その両方のせいだったのだろう。
ハルカはご飯が食べられなくなった。

まるで自分だけが放り出されたようなのっぺりとした世界で、味のしない物を口に運ぶのが億劫だった。気持ち悪かった。学校にも行かなくなったせいで勉強にもついていけなくなったし成績は下がっていく。どうでもよかった。ハルカにとって成績表は紙切れだったし、自分に何か言っているやつの声など聞こえなかった。
たまにハルカの味方をしてくれる人がいたが、ハルカはその声さえも拒否したのだ。
そのせいで保健室登校。スクールカウンセラーとお話をすることになった。
ハルカはマトモぶるのが得意だった。そのせいでスクールカウンセラーと上手く話せていたのだ。しかし「辛いことない?」と聞かれた時にああ、そういえば世界がのっぺりとしていて気持ち悪いなと思ったのだ。だからそれを訴えた。笑い話のように。
スクールカウンセラーは大きな病院を紹介してくれた。そこの医師に病名を告げられハルカはようやく自分がおかしいのだと気がついた。
ハルカは高校2年生の9月にこの高校を辞めた。いや、他の高校に転校したのだ。この時、ハルカは初めて過去の友人たちに報告をした。「早く言ってくれ」「頼って欲しかった」などと言葉をもらい心を痛めた。
同じような経験をしたという生徒たちが集まる高校だった。だから詳しい話もせずに普通に楽しい日々を送れた。ここで1年過ごしただけでハルカの空に浮かぶ新聞記事にも色味が浮かんだ。

ハルカは楽しい高校を卒業して専門学校に入った。専門学校の日々も楽しくなると信じていた。突然腕を叩かれた。初対面の人間にだ。入学早々......ただ、叩いたのではない。打ったという印象である。ソイツはハルカを睨んだ。ハルカは戸惑った。何もしていないし知らない人だったからだ。
ソイツは明らかにハルカを見下していた。ハルカには意味がわからなかったし、近づかないでおこうと思っていた。こういう危機感は高校時代に学んだことであった。
ソイツは自分をいつも「可哀想」だと言って同情を買おうとした。ソイツの境遇は可哀想という言葉に値したかもしれないがそれはハルカには関係ないことであった。
しかし、しかしソイツの普段の行いがあまりにも悪かったせいで周りから人が離れていったことでソイツは突然ハルカに付き纏い始めるのだ。ソイツの異常性はまるで宇宙人だった。話しても通じず、他の人に助けを求めると泣く、四六時中くっついて回っていた。ハルカは学校に行く前に涙がずっと出る症状に悩まされた。ソイツは同性であるにも関わらず、恋人がいるにも関わらず、ハルカにずっとついてきた。他の誰かと話していても割り込んでくる。初対面で自身を打った人間がこんなことをする意味がわからなかった。
ハルカは友人に相談した。友人たちは親身に話を聞いてくれた。ハルカはそれだけで助かったように感じた。
運動の授業の際に相手のツボを押さえるなどというのがあった時、首のツボを押すと見せかけて首を絞めてやろうかと思った。そんなことはできなかった。ハルカは初めて人に殺意を持っているのだと気づいた。友人たちの励ましも自分の衝動的な殺意のせいで無駄になってしまったのではないかとも思ってしまった。
でもまだよかった。クラスメイトが味方だったおかけで一緒にラーメンを啜りながら愚痴を言い合えていたのだ。......ダメになったのは休日に出かけた日だ。ソイツが当たり前の顔で同じ電車に乗ってきた。偶然とは思えない。休日まで潰されてはかなわない。あまりにも付き纏われて疲弊したハルカはついに専門学校も中退してしまう。
ハルカは怖かった。ずっとソイツと似たような風貌の人間に怯えるようになった。
空はぐちゃぐちゃに丸まった新聞のゴミで埋め尽くされ、建物や車はクレヨンでぐちゃぐちゃにかかれたように見ていた。しかし人がソイツに見えたのは堪らなかった。
ハルカは家から出れなくなってしまった。

それから1年は死ぬことだけを考えていた。
ハルカは死にたくなかったがこの世界から逃げたかった。
世界に疑問を持ったりした。口に出すとおかしい人だと思われるようなことを考えてしまっていた。死にたいと死にたくないの狭間。今にも消えてしまいたかった。
次の1年がくる頃にはハルカは錯乱状態になった。これは悪いことではない。のっぺりとした世界が元の姿を取り戻していたのだ。しかしそれは現実を直視するということに他ならない。気分が悪くて何度も吐きそうだった。壁を殴ったり胸を掻きむしったりした。
その後のはずいぶん落ち着いた。発作のように苦しくなることも無くなった。ただ人と会う・話すとどうも嫌な汗が出る。おそらく恐怖していた。ハルカは人にどう見られるのかに恐怖し、群れから外れないように行動を心がけた。
そのせいでずいぶんと凸凹に見えるようになった世界の下ばかりを向いて下手くそに笑っていた。ふと、母や父を見るとずいぶんと老け込んだように感じた。まともに母や父の顔を認識したのは高校1年生以来だろうか。時間の経過を感じた。ハルカは思った。まともな人間になりたいのだと。あまりにも難しく厄介なこの世界でただ空は綺麗に青いのだと、ハルカはようやく正しい世界を見る。

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