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『極限の思想 サルトル』-羞恥とは「他者の前における自己についての羞恥」-


 記事を読んでいただいている方は本書を読んでいるようなものと言える。かなりの文章量を抜粋させて貰っている。故に、なかなかページが進まない。

サルトルの着眼点と対自や対他の仕方は私とそれと似ている。

 今でこそ私は楽観的になっているが、あらゆる自分の側面と、同じく他者や世界の側面と対峙している時は至極真面目に、その頃は長く一年近く続いた絶望からの虚無にいた。

楽観的思考まで昇れたのはつい一年ほど前。

死ぬことも生きることも出来ない絶望を経て、生きているけど、生きたくもない死んでもいいし生きていてもやる気がない憂鬱が半年以上続いた。
その虚無から脱したのは、無理クリな楽観、そう、全ては喜劇と気づいた時だった。
もう私は虚無には行かないだろう。

 本書を読み終わり、記事が全て挙がったとき、この記事を読んで下さっていらっしゃる方は、無の思想であり実存主義、仏教でいう「空の意識」に辿り着くかもしれません。

知識などなくとも、修行をしなくとも、(苦しいかもしれない)対自を繰り返せばその域まで到達は可能。

また前回の続きから本文を抜粋します。

 対自とは現にそれであるのではないものである。それゆえ「対自が存在のかなたでそれであるもののすべて」が未来であるそれゆえにまた、対自とは自由なのである。

 時間性が存在するのではない。時間性はみずからを時間化する。
対自が存在することによって時間化する。対自はみずからの現在ではなく、対自とはじぶんではないもの、みずからの未来への超越である。対自は未来への超越であることで自由なのである。

P113

 現在-過去-未来という時間的流れ。いつからかそれは流れているものではないと感じるようになったが、未来の記憶というものは私にはなく、あるのは中今までの過去の記憶のみ。流れていたものが途絶えたという表現が合っている。

この現在-過去-未来という三つの概念が言語内在と共通認識とで、時間というものがあり流れているものとして確立されてしまっているように思う。

 基本的に即自の自分しかない中で、私は対自と対他により過去の分は全て相殺してきた。
以後、現在ある問題について、私はその場で対処する「即対自」の方法をとっている。

 本書と酷似する自分の振る舞いに、今では文面から可笑しさが込み上げる。

私は無に辿り着いた所で安堵しているだけだったが、サルトルは無の中の「虚」を追求していて面白い。『嘔吐』でそれがわかるが、無の中の少しばかりの虚、「憂い」まで、喜劇に展開させる(無にする)、素晴らしい能力をサルトルは持っている。


対自としての未来、対他存在

世界に無をもたらす否定的なふるまいの数々。

・対自の名のもと、一方では定立的なコギトであって、他方ではまた非定立的なコギトであった。

・更に考える必要のあるのは対他

・対他とは対自でありながら他者を巻き込んで成り立つ存在論的構造。

・対自のそれとは根底的にことなる構造を示す。

・「私の存在でありつつも対私的なものではない存在の仕方

P115まで

P116〜
対他存在とは何か?───羞恥について


・対私的な存在であるばかりでなく、同時にまた対他存在であることをあかすのは私自身の身体性に他ならない

・羞恥心の場合も問題となる意識構造はこれまでと同一。

・羞恥とはつまり「羞恥としての自己(についての)非定立意識」他方でまた、一箇の志向的構造をそなえている。「なにものかについての羞恥的な把握

・原初的には直覚的な意識で、しかもその第一次的な構造においては「誰かの前での羞恥

・自分の下品さに気づくときは、私はあくまで対自的な意識であるに過ぎない。しかし「他者に対してあらわれている自分について恥じる」、この羞恥は、それ自体として対他的なものであり同時にまた対自的なものである

・この下品さという対他存在は、他者のうちに住みついているのではない。それはあくまで対自的に存在する。

・羞恥とは「他者の前における自己についての羞恥

・対他とはあくまで私の存在の次元であり、つねに同時に対他存在である他者を巻き添えにして私の存在そのものが他者の存在自体を懐胎している


・第一に他者の存在の問題。第二に他者の存在に対する私の存在関係の問題が問われる。「独我論の暗礁


P118〜
他者の認識と他者の存在

他者(他人)とは「内部に意識を宿し、心的体験を有している身体存在」

・他者が一箇の他我であること、つまり「もうひとりの私」であるのを私はどうやって知ることができるか

他者の認識が可疑的(蓋然的)である

・原理的な次元で他者の存在が疑いうること。すなわち他者が他我であること、その存在が可疑的である次第が帰結する。

・他者の意識はたしかに直接知ることができない。だが、私は他人の身体的な表現を介して間接的に他者の心的な状態に接近することができるのではないだろうか?

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 この後、類推説感情移入説に続く。

心の中で皆していることであるが、哲学表現がまたなかなか面白い。しかし既知であると思われるため省略する。

 羞恥は少なくとも誰にでもあることだ。
対自において、私はこれを出来る限り無くす必要があった。理由は色々あった。自分を躾けるためでもあったし、恥ずかしいという心の裏には承認欲求も隠れている。その承認欲求を無くすと同時に、何かが心の中に入られても平然と居られる状態を創りたかった。それには常に「無心」か若しくは卑しい心が少しでも存在していてはならないと自分を躾け、無くし、無に限りなく近づくようにした。というより、私が勝手に自分によって自然にそう成っていった。

恥ずかしいと思う余地がないほど、自分を隠すことなく、ありのままでも無でいられる状態が自然だと思った。

同時に外界を見ると厭世観が次々と湧いてきたが、現在はそれらを目にしなければ、全くと言っていいほど思う事はない。

 本文と論点がずれて来ている。

 本文の志向に戻すと、サルトルの言うように、他者(他)とは可疑的であり、法界に入れる他者の、出来る限りの全てを分析して知らなければならない。わからない部分は蓋然性として私は補っている。

 感情移入などもってのほかである。

感情表現の出現と本音、根底にある他者(他)の「有」は何かと見抜く必要があるからだ。
映画やドラマの人情ものなどは、オーディエンスをドクサに嵌め、感情を誘導に使われているため吐き気がして観れない。

感情の根底は欲だ。自分にある偏見の正当化。それを他者に許容させるためでもある。人間は無意識的にそうなるし、作り上げることも可能。所謂演技が可能なのだ。

 私の使う、そう言った俗的な言葉が、本書では一切出てこないので、わかりやすく代弁してみた。

 また論点がずれて来た。

 本書に書いてあったように、表面に出る感情が原初の他我(他者の自我)であるという判断はもちろん出来うる筈はない。




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