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世界の歩みを想像してみる~海辺で小石を拾う~

ここ最近、海辺を歩いていると、程よい大きさの石ころが水たまりのようになってあちこちに固まっています。

どこから運ばれてきたのか。
ほんの一か月前の砂浜には、こんな石だまりはなかった。こうしたものをみつけるにつけ、海はいつも変化しているのだなと感じることができます。

僕は水切りが好きなので、程よく削られた平べったい石を拾って、誰もいない海に投げてみます。
波と波の間の、海がちょうど平らになるタイミングを見計らって投げないと、小石は波にのまれてしまいます。いくつかの石を拾って、ひとつ投げるたびに、次の波が過ぎるのを待つ。またひとつ投げて、また次の波が過ぎ去って、海面が静かになるのを待ちます。
こうやって投げ入れた石もまた、潮が上がると波に打ち上げられて、元の石だまりに戻ってくるのかもしれない。
それが何日後か、何か月後か、何年後になるかはわからないけれども。

最近はこんな本を読んでいるので、海辺の散歩中に、よく石を拾うようになりました。

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おそらく、石(鉱物)ほど長く地球に存在しているものは、他にありません。
小石のひとつひとつが、地球の欠片だと言ってもよいと思います。
小石の元素、どんな鉱物で出来ているか、そうしたことを調べていくと、そに宇宙や地球の歴史が見えてくるそうです。
小石の表面に現れている、白い筋にも、大きな秘密があるようです。さて、どんな秘密があるのでしょうか。

角が取れてすっかりまるく、手に取るとツルツルして心地よい柔らかさも感じる。不思議と温かいような感じもします。海辺には、そんな小石がたくさん落ちています。
もともとは岩石の一部だったこの小石が、何千年前か何億年前かに、岩肌から剥がれ落ち、波に砕かれ、砂利に削られて、何万年もの間に渡り海底を旅し続けて、今この砂浜の石だまりの小石の一つとして、物もいわずにコチンとしている。
僕たちからすれば、この世界の大先輩ってわけです。拾って海に投げ入れるなんて、とんでもない無礼なことのような気もしてきますが、彼らはそんなこと意にも介さないでしょう。

宮沢賢治も、幼少期は石拾いが好きだったようです。石好きなことは町中の人が知っていて、みんなからは石っこ賢さんと呼ばれていたとか。
賢治の物語には美しい鉱石がたくさん出てきますし、最初の詩集『春と修羅』の詩にも、この宇宙の物語のひとりの主人公として、鉱物や地質への澄んだまなざしがあります。
賢治はひとつの小石の中に、宇宙を見ていたのかもしれません。

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歩んでいるのは、人間だけではありません。

宇宙の歩み、世界の歩み、歴史の歩み。
この世界の大きな時の流れの喩えに使われる「歩む」という言葉が、人間の歩みからのみ取られているいると思うのは、少し見方が狭いようにも思えます。
むしろ、この世界の大きな時の流れに従ってこの地球に存在することを、自分たちの足を一歩一歩進めて前へと踏み出していく行為に「歩む」という言葉で喩えたのではないか。歩むという行為は、人類の誕生よりも先にあったのではないか。そんな気がしてきます。
宇宙の歩みと、人間の歩みは、地続きなのかもしれません。

宮沢賢治の物語は、人間から見た世界というより、人間ではない別の何かから見た視点で描かれているように読むことができます。
その入り口は、石だったのでしょうか。この丸い小さな小石の中に、宇宙の歩みを想像できる感性が、賢治の中にはあったのかもしれません。

子供に戻ったような気持ちで小石を拾って、しばらく海辺に腰かけて、何も考えずに、大きな時間の流れを想像してみる。

波を巧みに避けながら、砂浜を行ったり来たりしている小さな白い鳥がいます。その仕草がとても可愛い。ミユビシギ、という鳥のようです。
立ち上がった波の中に3~4匹連れ立った魚影が透けて見えます。ボラだと昔だれかに教えてもらいました。時々、海面をジャンプしたりしています。

この座り心地の良い石だまりも、いずれどこかへ流れていきます。
そうしてまた新しい何かが、この砂浜に流れ着いてきます。

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