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僕たちは急ぎすぎているのかもしれない~歩く速度と生命の速度について~

ここ数ヶ月の疫病は、僕たちに何をもたらしたのか。
僕たちの何を変え、何に気づかせ、何を残していくのか。
僕はこのところずっと考え続けているし、誰もが嫌でも考えざるを得ないと思う。

この終わりの見えないトンネルからいつ抜けることが出来るのか。いつになったら顔を覆う暑苦しい布をゴミ箱に投げ捨てて、友人や恋人と思い切り笑いあうことが出来るのか。
まるで理想のようになってしまった、かつては当たり前だった日々を、いまや遅しと待ち焦がれても、それは簡単には戻ってこない。
僕たちがどれだけわがままを言っても、どれだけ最新技術を使っても、その時間を加速させる術は、今のところはまだ無いらしい。
特効薬が開発されれば、少しは速くなるのかも知れないけれども。

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生命の時間、というものについて僕は最近考える。
人間なら、約70~80年の寿命の間に持っている時間。動物たちはもう少し短いかもしれないが、樹木ならきっと数百年~数千年もの時間を持つだろう。
そして疫病も一つの生命体だから、僕たちと同じように、彼らの時間を持っている。

時間の流れる速度が、時計が針を刻むように常に一定かどうかは、僕には分からない。
でも、ひとつ言えるのは、生命の時間は、僕たちの都合には合わせてはくれないということだ。

僕たちがどれだけ急いでも、生命の時間はのんびりしたものだ。
僕たちが食べたものは、僕たちの力で消化速度を変えることはできない。いつも大体同じ速度で、胃で消化して、腸で吸収して、便になって出てくる。日本で一番人気のあるアイドルだとしても、「この後大切なライブだから今すぐお腹凹ませたいのっ! お願いだから3分で消化して出して!!」なんてわがままを言って消化速度を上げられる念能力なんて持っていないだろうし、多分そんな人は、世界中探してもどこにもいない。
もしかしたら、高名なヒマラヤの老師とかなら出来るのかもしれないけど、寡聞にして僕は存じ上げていない。

樹木の種が土の中に根を生やし、茎を空へと高々と伸ばして、青々とした葉を茂らせるのに掛かる時間。僕たち人間が、赤ちゃんから大人へと成長するのに掛かる時間。死んだ生命を土が分解し、次の生命へと受け渡すのに掛かる時間。

生命には、絶対に掛かる時間というものがある。残念ながらそれは、僕たちの力では変えることの出来ない時間だ。

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今回の疫病は、僕たちの目の前に、忘れかけていた生命の時間を突きつけたと僕は思っている。
この疫病がどれだけ蔓延したとしても、専門家以外の多くの人たちはきっと、一週間程度で終わるだろうと思ったし、長くても一ヶ月程度だろうと思っていた。もちろん僕自身もそうだった。
なんやかんやでオリンピックはやるのだろうと思っていたし、何事も無かったかのように、いつもの日々が戻ってくるのだと、そう思っていた。ほんの数ヶ月前までは。

しかし、この世界にいくらか居心地の良い住処を見つけたらしい疫病たちの時間は、僕たちの都合などひとつも省みてはくれないようだ。
経済が、オリンピックが、夜の街が、テレワークが、満員電車が、実家の両親が、遠方の恋人が・・・、何を言っても無駄だ。彼らは僕たち人間社会のために急いでなんてくれない。
僕たちは、彼らのゆったりとした移住の過程をただ眺めるだけだ。僕たち人間たちが普段暮らしているこの社会が要求する速度に比べたら、それはなんてのんびりとしたバカンスだろうか。

しかし、同時にこうも思う。
むしろ、彼らの時間の方が自然なのかもしれない、と。
僕たちは急ぎすぎているのかもしれない、と。
自然に反して、急がされすぎているのかもしれない、と。

これまで人間社会が工夫と技術によって限りなく効率的に速めてきた時間は、僕たち人間が持つ生命の時間から、懸け離れてきていないだろうか。

僕たちの頭と身体は、今の時間の速さに付いていけているだろうか。振り落とされないように必死でしがみついているようにして、実はすでに両腕が千切れていることにすら気づいていない、なんてことはないだろうか。あまりに速すぎて、身体が千切れた痛みにすら気が付かないままに。

こんなことを僕が考えるのは、歩くことが、人間の生命の速度を感じることであり、その感覚を取り戻すひとつの方法だと思っているからだ。
僕たちにとって最も自然と感じる速度、その速度の尺度は、おそらく歩く速度と関係している。

1秒間に概ね2歩、1分で約120歩、1時間だと約6000歩~7000歩。これが、恐らく人間の平均的な歩く速度だ。

歩く人④で書いたけれども、この速度は、人間が音楽のテンポを感じるときの、速さや遅さの基準となっているらしい。
それは、人間が数百万年前に生まれてから現在まで、歩き移動し続ける中で刻んできた両足の一番自然なテンポが、人間の身体の記憶に刻んできた、生命の時間の尺度の一つだ。
歩く速度で、両足が地面を踏む音を両耳で聴き、一歩ごとに踏みしめる地面の凹凸を足の裏に感じる。僕たち人間は、この身体感覚を数百万年にも渡って、僕たち人間の時間として感じ続けてきたはずだ。

これは是非比べてみてほしい。歩いているときに見たもの、感じたことが、僕たちの記憶にどれだけ残るかを。同じ道を自動車で、電車で走ってみたときと、その残り方がどれだけ違うかを。

世の中の社会的で経済的な都合に合わせるようにして、僕たちは生活の速度を速めることが善とされてきたし、多くの優れた技術革新は、この速度を効率よく上げるためになされたものだった。
いまや一瞬で世界中の人たちと繋がることが出来るようにまでなって、それでもなお速度を求める僕たちの世界は、生命が本来持っているはずの時間をどう考えるだろうか。

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最初の問いに戻ろう

ここ数ヶ月の疫病は、僕たちに何をもたらしたのか。
僕たちの何を変え、何に気づかせ、何を残していくのか。

僕たち人間の生命の時間について。それが他の生命、自然、それに疫病、それらと関わりあっている時間と速度について。
そのもっとも自然で始原的なあり方について。
そして、もはや後戻りはできない今の社会の速度の中で、僕たちはいったいどこまで、僕たちの生命の時間を、その速度と摺り合わせることができるのか。

疫病が無遠慮にも唐突に投げかけてきたこの大きな問いを、僕は自分自身への課題として、これから考えてみたいと思っている。

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miuraZen
歩く人

描いたり書いたり弾いたり作ったり歌ったり読んだり呑んだりまったりして生きています。
趣味でサラリーマンやってます。

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