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2013年4月26日

キャンプ2からカトマンズへ

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朝起きて食事をする。ついに今日、ヘリコプター下山を行う。ヘリコプターは昨日一日待ちぼうけであった。今日は本当に大丈夫かと一抹の不安がよぎる。父の酸素も残りわずかである。C2にあるすべての酸素をかき集めてきても、今、父が吸っている酸素が最後のボトルだ。もし、これを使い切ったら、父は無酸素でここから下りなければいけなくなる。

昨日、アイスフォールが崩落、その後急ピッチで修復されたがBCから追加の酸素を要求しても、今日までに父を歩いてアイスフォールを下すのは難しいだろう。残圧を調整しながらひたすらC2のヘリポッドで待つ。エベレストを見ると今日は晴れ渡っていて山頂まで見事に見える。一昨日まで必死にあそこから降りようとしていたことを考えるとまだC2は楽園だ。

しかし、その楽園も今やほとんどの隊が引き上げてしまい、1週間前から考えるとまるでゴーストタウンのように人の気配がしなくなった。

朝、ヘリコプターを待ったのはほんの1時間ほどだろう。これまでエベレスト登山のために費やした時間を考えると、それはほんのわずかな時間だろうが、待つ時間は永遠とも思い間違う時間だったウェスターンクーンの谷間に、突然ヘリコプターが爆音は反響させながら現れた。父がまず最初だ。父の荷物に加えてシェルパ達はほかの荷物も準備する…。ヘリコプターが到着するとすぐに、それらを乗せようとするが、パイロットに断られる。

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ここは標高6000㍍以上、ちょっとしたウェイトオーバーでヘリコプターは浮力を失ってしまう。結局、父以外に荷物を一つ乗せたヘリコプターは地面すれすれに飛び立ちアイスフォール方面に急降下していく。その後ろ姿を見たとき、僕は心から安堵した。「これで最悪は避けられた」と倉岡さん、平出君、大城先生、ミトロ君とシェルパ達とみんなで喜んだ。

仮に、ヘリコプターが戻ってこなかったとしても、父がヘリで降りたこと、それ以外のメンバーは、それぞれのスピードだと、数時間でアイスフォールを抜けることができる。しかし、ヘリコプターはさらに僕と大城先生を迎えに来てくれた。そして僕達の荷物もすべて乗せてくれた。ヘリコプターはあれほど僕達が苦労して登ったアイスフォールを瞬く間に下り、ベースキャンプにたどり着く。

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ベースキャンプでは、先についた父とベースキャンプで支えてくれたみんなが笑顔で迎えてくれた。お兄ちゃん、貫田さん、五十嵐さん、早坂さん、そしてコックのアンラクパ、デンディ、ダヌルみんな本当に嬉しそうな顔をして迎えてくれた。そして、下山したときの荷物もちゃんと用意してくれている。ほんの少しの時間の再会であった。

その後、大城先生がヘリで降りてきて、全員がそろったところで再度、3名でヘリコプターに乗り入れる。そこから一気にルクラまで行くと思ったが、一度、カラパタールのふもとに着陸、燃料をピックアップして、再度上昇、そしてすぐにペリチェで下された。ペリチェではもう一台ヘリコプターが用意されていた。もう一台用意されていたヘリコプターはシートもしっかりしている。僕達が乗っていたのはどうやら、高所用にシートを外してあり軽量化されているものだ。どうやらここでヘリコプターを乗り換え、カトマンズに行くようだ。ヘリコプターを降りると、パイロットが握手を求めてきた。パイロットは見覚えがある人で、一昨年、霧の中僕達をメラピークに運んでくれたパイロットだった。

再会を祝い父と握手、そして新たなパイロットと交代してヘリコプターを乗り換える。そのヘリはその後、一度ルクラにて給油した。ルクラではナワヨンデンさんとカルマさんが待っていてくれた。先ほどまでC2にいたのだが、まるでタイムスリップしたように物事は急激に進み、懐かしい面々が早巻き戻しのように戻る。

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その後、ヘリコプターは飛び立つと一路カトマンズへと向かう。ヒマラヤの山岳地帯からカトマンズ盆地をヘリコプターからの景色をぼーっと眺めていた。あまりの事態の急変にまだ頭が追い付かない。シェルパや倉岡さんたちは無事に下山できるかなと思いをはせる…。

カトマンズは突然やってきた。ヘリポートには、現地のエージェントのプラビン、ラムさん、そしてラクパテンジンさんとその息子さん、そしてカメラが構えて待っていた。みんなに祝福してもらい車に乗り換えるとラムさんが、「空港の外はすごいことになっているよ」と言われた。

僕達はずっとエベレスト山の中で、父が80歳で登頂する様子をインターネットを通して世界に配信し続けた。それが大きなニュースになり、80歳登頂が世界を駆け巡ったという。空港を出ると、そこには数十台というカメラが配置され、父の到着を待っていた。荷物の受け取り場を抜けるとすぐに父は取り囲まれ、報道取材に応じることになった。まるで僕達はウラシマ太郎だ。

その後、ロルワリングトレックが用意した車に乗り込み、ホテルに向かう。その車の中で、今の状況をラムさんから説明してもらった。ラムさんは日本もネパールも父の話題で持ち切りだという。その多くは父の偉業を祝福しているという。しかし、なかには父の報道をすべて肯定的に受け止めているメディアばかりではないので気を付けてくれという…。それはネパール国内で、勝手にライバル意識をもやしているものたちだ。

午後2時には記者会見を開くのでその準備をこれからするという。僕は日本の姉に電話をかけ、無事に到着した旨を報告した。姉は日本もネパール同様、今の父を取材したい人たちであふれかえっているという。ホテルに到着するも、そこでも報道陣が待ち構えていて、父は丁寧に一つ一つの質問に答えている。

その中で一人、重要な人物が迎えてくれた。エリザベス・ホーリー夫人だ。彼女は80歳を超え、ヒラリー&テンジン登頂後、これまで50年以上にわたりエベレストやヒマラヤ登山隊の記録を撮り続けている米国人女性だ。彼女の記録こそがヒマラヤ登山の証ともいえるべき、正確な記録である。彼女の質問に答えることこそが最も優先順位が高いと思い僕が、父に代わってホーリー夫人の質問に答えるインタビューの最後、彼女は「Congratulations」と言ってその場を離れた。

記者会見には15社ほどの記者が集まり、父が今回の登山に対して説明した。質問の中にはこれからどうするのか?というものがあり、その問いに対して父は「今回のエベレストはとても疲れた、次のプロジェクトに関してはまた考えたいが、頭の中にあるのはチョオユーをスキーで滑ってみたいと思っている」と答えた、もう父の頭の中には次のプロジェクトがあるらしい。

記者会見の最後、僕はプロジェクターで用意してもらった父の登頂写真を指してこういった。「この度、父は80歳というエベレスト登頂最高齢記録を作りました。エベレストはもちろん誰のものでもないし、記録は破られるためにあると思います。しかし、もし記録が破られるとしたら、その記録は正しく記録されなければいけません。三浦雄一郎の年齢は日本が発行した出生記録を確認してください、父の頂上の写真に関しては、このプロジェクターに写っている写真をよく覚えていてください。エベレストの山頂の様子、そして何よりも父の顔の特徴がよくわかるマスクなし、ゴーグルなしの写真です。エベレストの山頂には誰もいません。その中で記録が残されるとしたら、こうした写真は必然です」…と。

これは今後、エベレストの山頂にありとあらゆる記録が設立されるとき、そのスタンダードをしっかりとしてほしいという気持ちを込めて、集まったメディアに訴えたのだ。登山とは、その行為はほとんど自己満足の世界であり、究極の自己主張である。しかし、その中でもし記録を求めるのなら、こうした客観性のあるものがしっかりと提示されて初めて万人に認められるべきであろう。

父は記録のために登ったわけではないが、80歳の父が登ることによって多くの人が勇気づけられたことは確かである。写真はそれらの勇気を後押しするためであり、高齢化しても意欲を失わないための象徴でもある。そして今後、その父を越えようとするはっきりとした目標でもあるべきだ。父はこのためにかなりの時間山頂でマスクを外していた。今後、この記録を超える人にも同じような目標としていてもらいたい。

最後に父は「エベレスト山頂には仏像があり、そこの周りには旗が大量に持ち込まれている。これらの旗はほとんど個人的な思い入れがある旗であるが、もともとエベレストの山頂は何もない綺麗な、ヒラリーとテンジンが登る以前の山頂に戻すべきである」と思いを伝え、記者会見を閉会した。


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