小学校入学|三浦自伝③
(写真:当時少しだけ習ったバイオリンの発表会で)
ごはんは作るところから片づけるところまで一緒にするという母の教育スタイルで、三浦は幼い頃から台所に立ってきた。
食べるものに関しても有機栽培野菜を使用したり、おやつは煮干しや昆布、かつお節などで出汁の味を覚えさせたりとこだわった。おかげで魚のさばき方やパンの焼き方、出汁のとり方などが早くに身に付いた。
母が来客中に見よう見まねで煮干し出汁の味噌汁をメイクしたのは小学校に上がる前だった。
小学校は当時生徒数1200人ほどのマンモス校・名東小学校に入学。その頃の記憶といえば体育の授業中におしっこをもらして保健室でぶかぶかの大人用ブリーフを借りたことや、学校からの帰り、友達の目の前でおしっこをもらし「ないしょだぞ」と念を押して走って帰ったことなど、涙なしには語れないエピソードが豊富にある。
同級生たちと塀に登って遊んでいて、滑って頭から側溝に落ちたのもいい思い出だ。あの時は頭が切れて何針か縫ったが、おかげで頭の切れる男を自称できるようになった。
とにかく三浦はよく頭を打つ星の下に生まれているらしい。
両親共働きだったため放課後は隣の学区の星ヶ丘学童に通っていた。よく中学帰りの姉が迎えに来てくれ、帰り道にたこ焼き屋「たこおやじ」で買い食いして帰った。ピリ辛味がうまかったのだが、残念なことにつぶれてしまった。
遊びと言えば公園で遊んだり川でヤゴやザリガニを採ったりしていたが、当時スーパーファミコンやNintendo 64、プレステ全盛期で友人たちは少しずつ室内で遊ぶようになっていった。
そして家にテレビがなく、漫画もあまり買い与えられなかった三浦は段々友人たちと話が合わなくなっていった。
「類、一緒に南アフリカに行かない?」母親からそう言われたのはそんな頃、小学4年生の夏だった。アフリカという魅惑的な響きに二つ返事で「行きたい」と答えた三浦だったが…。
(つづく)
※三浦編集長 Vol.3(2014年11月発行)より転載