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コロナ禍における「身体性」と「言葉」

 新型コロナウイルスの影響で何が一番変わったか? と聞かれたら、わたしは「在宅勤務になったこと」と答えるだろう。
4月はじめに緊急事態宣言が発令され、このタイミングで多くの企業が社員を在宅で勤務させるという選択をした。わたしの所属する会社では一足早く、3月なかばに全員の在宅勤務&オフィスへの立ち入り禁止が宣告された。そしてそれは現在も続いている。

 というわけで在宅勤務になって、早3ヶ月が過ぎた。これまで、当たり前かつ不可変だと思われていた生活スタイルがこのような形で「実際に変化した」ことに、わたしは3ヶ月たったいまでもかなり新鮮に驚いている。なぜなら、それこそ保育園や幼稚園の時代から、わたしたちは「平日は毎朝家を出て、どこかに通うこと」を強制されていたからである。


■人間は社会的な生き物である

 さて、今回のこの新型コロナウイルス対策によって、会社に行かずして働くことが可能になったわけだが──しかも社会的に認められ「推奨」までされている!──手放しにオールハッピーであったかといえば実際そうではなかった(最初に予想していたよりはという意味で)。

そこで、どんなことがGOODでどんなことがBADだったか、一度書き出してみようと思った。

<良かったこと>
・ギリギリまで寝ていられる
・化粧や着替えがいらない
・ゆっくり朝ごはんを食べたりコーヒーを飲んだりできる
・仕事の合間に家事や調べ物ができる
・他人に合わせる面倒がなく苦手な人と会わなくていい
・仕事を終えてすぐスーパーに行き夕食の準備ができる
・大好きな家にいられる etc

<悪かったこと>
・人と話さない(雑談ができない)
・文字だけのコミュニケーションへの不安が生まれた
・メリハリがつかない/仕事とプライベートの気分の切り替えができない
・閉塞感がある
・3食分の自炊&洗い物…
・深刻な運動不足とおやつによる体重増加 etc

ざっとこんな感じである。SNS等見ていてもこのあたりのメリットデメリットへの言及があるので、みんな多かれ少なかれ同じような感想を持っていると思っている。

 一見すると、良かったことがもたらす恩恵のほうがより影響力が強いので、在宅勤務ばんざい!となりそうだが、実のところ精神にとっては必ずしもプラスになるとは限らないんじゃないかと思っている。なぜなら、人間は自分たちが思っているよりもはるかに社会的な生き物だからである[*1]。


■社会−身体性=?

 わたしたちは程度の差こそあれ、必ず社会を必要としている。しかし、コロナ禍においてはその社会(のある側面)はシャッターを下さなくてはならなくなった。わたしたちの社会性こそが、感染を広める大きな原因だとわかったからである。

ちなみに、社会とはなんぞやという点については定義が難しいらしいが、広辞苑によると「人間が集まって共同生活を営む、その集団。諸集団の総和から成る包括的複合体をもいう」ということらしい。

 先ほどの在宅勤務についての良かったこと悪かったことに話を戻す。この大きな実際の変化がどうして可能になったかというと、社会という「場」に出なくてすむようになったから、である。

場に出て行かないということは、社会から身体性が欠如するということである。
学校や会社に行かなくていいのでそれにまつわる準備ごと──身だしなみを整えたりお弁当をつくったり電車に乗ったり──をする時間が必要なくなる。
社会のまっただなか──授業や同僚・上司との会議や取引先への訪問──においては身体不在のオンラインコミュニケーションになった。
また、社会からいったん離脱し、プライベートへと戻る時間──退勤し電車に乗って家に帰る、途中寄り道したりなど──もなくなった。
このように、わたしたちの生活から「社会のための身体」がなくなったのである。

 こんなふうにして「社会」と「身体性」のことをぼんやり考えている際に、考えの支柱を与えてくれたのが斎藤先生のこちらの記事でした[*2]。

(この記事で「臨場性」という言葉を覚えた!)

 何かを決めたい、依頼したい、説得したいと思うとき、人は会うこと、集まること、すなわち「臨場性」を求めがちだ。なぜか。そのほうが「話が早い」からだ。なぜ話が早いのか。それが「臨場性の暴力」の行使だから。これから述べていくように、暴力は欲望を加速し、関係性を強化する。臨場性という暴力には、人々の関係と欲望を賦活し、多様な意思をとりまとめ、決断と行動のプロセスを一気に前に進める力がある。集団の意思決定において、しばしば集まって対話することが必要とみなされるのはこのためだ。この効率化のおおもとに「臨場性の暴力」があるということ。このことに気づき、自覚できるのは、人類の歴史上、もっとも臨場性が剥奪された今をおいてほかにない。

 このようにして臨場性を剥奪された社会に残るものはなにか?
つまり「社会−身体性=?」ということだが、ひとつの回答として「言葉」があるのではないかとわたしは思っている。


■言葉の限界

 21世紀の最大の発明としてのインターネット、これがあったおかげでわたしたちはなんとか身体を抜きにして社会・経済生活を営むことに成功している。みんなが仕事をするのにいまや必須のツールであるチャットやビデオ会議システム、メール、電話もそうだが、コミュニケーションはほとんど言語のみに依拠するようになった[*3]。

しかし、とても残念なことに、正しい日本語が使える日本人は意外と少ない[*4]。
加えて、文字ベースのコミュニケーションでは、対面時と比較して脱落するものが非常に多い。わたしたちは常に言外の表情・ジェスチャー・声のトーン・その人がどんな人物であるかを知っている(=過去のコミュニケーションによる情報の蓄積・信用の貯金)によってかなりの情報をおぎなっているからである。

電話やビデオオンの会議であればまだましだが、特にチャットのような高速のツールで、自分の言いたいことを正確に素早く日本語に置き換えるのは、実はかなり難しく、高度な技術が必要とされる。

 もちろん、言葉不足は常にあり(お互いに)それをおぎなってコミュニケーションは進んでいく──特にビジネス界では不思議な言い回しや奇妙な省略が非常に多い──が、前述した言葉をおぎなってくれる諸要素を補充しないまま現在と同レベルのコミュニケーションを保つのは難しいのではないだろうか?[*5] つまり、身体性の要素がなくなればなくなるほど、コミュニケーションのハードルはどんどん上がっていってしまう。


■再発見される、臨場性がもたらす効果

 自粛生活によって「直接会うこと」に代わる手段などないと実感したのはわたしだけではないと思っている[*6]。というか社会における身体がこんなにも重要だったのかと改めて驚くことになった。

 最初にもふれたとおり、わたしたちは生まれてから数年で社会に放り出され、毎日そこに行くということを強いられる。そこでは、身体なしというわけには絶対にいかない。学校に行きたくないと言えば大ごとになるだろうし、会社に行きたくないのであればフリーランスになるしかないと言われるだろう[*7]。
どこかに所属する人間は、決められた場に決められた時刻までに姿を現すことを義務付けられる。

なぜか? 臨場性が持つ効果は集団性の可視化に大いに役立つ。学校の全校朝礼など、放送を流せば事足りるにもかかわらず体育館やグラウンドに全校生徒を集結させる。ひとつの場所に身体を持ち寄ることが、その集団への帰属性を意識させるもっとも手っ取り早く強力な手段だからだ。

そして、「そこにいる」ことはわたしたちが自覚していたよりもずっと多くの役割を実は果たしていたのだ。例えば、大人数の会議や授業、または飲み会といった集まりでは、もはや「そこにいる」だけで何か一定の義務が確実に果たされている。
実際にその場に行き、滞在し、会の終わりとともに帰る。その間ひと言も発しなかったとしても、出席したというだけで(なぜかはわからないが)それ自体がとても説得力を持った事実として立ち上がってくる。物理的に「そこにいる」というのは「評価に値する行為」のひとつであるようだ[*8]。
会社に行きデスクに座っているだけでも(実際にどうかはわからないが)仕事をしていると周りが認識するのも同じである。

 これがオンラインの会議だと少し様子が違ってくるようで、積極的に発言しないと存在感が薄くなってしまうだとか、チャットで進捗を逐一報告するだとか、それまでに必要なかった範囲まで可視化する必要が出てきている人もいるみたいである。

それが一種の強迫観念的なものであるのか、そういった指示がでているのかは別としても──パソコンの前にいるかどうかを監視する(!)システムの導入が検討されているとかなんとか──これは物理的な臨場性の効果をおぎなうためのものであると考えていいのではないか。

 また、もっと簡単に考えても、家族や友達など大切な人とのコミュニケーションがバーチャルで済むのかといったら決してそうではないことがわかる。どんなにインターネット技術が発達したとしても、実際に会うこと以上には絶対にならない[*9]。

 感染症による自粛生活によって、これまで当たり前に社会に内在していた身体性が消滅し、その価値が再び見直されることになるのではないかと思っている[*10]。

 

■自分がどこにいるのかわからない感覚

 さんざんいわれているように、わたしたちは他者を通して自己を形成している。自分だけのオリジナルといわれるようなものは、実はなく、あるのは他者のうちからあれこれ借りてきた知識や思想やアイディアや欲望や価値観のオリジナルな組み合わせのみである。そして他者とは世界と自分を繋いでくれるひとつの重要なファクターである。

 したがって、他者の不在は自己にとって深刻なダメージをもたらすはずだ。
わたしは自粛生活が1ヶ月を過ぎた頃、ふと「自分がどこにいるのかわからない感覚」に陥った(もちろん地理的な話ではない)。

これは社会から身体性がなくなったことと関係があるのだろうか? それとも単に他人とのコミュニケーションが相対的に減っているからなのか。

 もちろん、前述したように、社会から身体性が抜けたとしても、今はインターネットがあり、言葉や映像により営まれている現実の社会がある。むしろ、身体の不在をおぎなうためや新型コロナへの不安を解消するために、より自発的なコミュニケーションが取られているといってもいいだろう。

にもかかわらず、そこには何かが致命的に欠けているとわたしには感じられる。他者から与えられる様々な要素は、身体性が条件ではないはずだ。むしろSNSやテレビ、本などで得る情報量の方がはるかに多い[*11]。

それなのに、以前とは違う──地に足が着かない、文字通り「身にならない」──感覚に襲われる。自分と世界とを繋いでくれるロープのみたいなものがどこかで切れてしまっているんじゃないだろうかと不安に思うような、そんな感覚である。

 それと身体性の欠如とどんな関係があるのかは、正直わからない。もしかすると、対人間だけでなく、自分の身体と物/空気/場所/できごとなどの対物質におけるディスタンスも影響しているのかもしれない。

自分と世界との距離が遠のく──実感できないときにも、わたしたちは身体性の意味をもう一度考えることができるのかもしれない。


[*1]映画「into the wild」は人間が社会的な生き物であること、社会を必要としている生き物だということを改めて提示してくれる。とても良い映画です。
[*2]もしこの記事をここまで読んでくれる稀有な方がいるとすれば、とてもありがたいことです。しかし言うまでもないですが、斎藤先生の記事の方がはるかにしっかりとした考察され言語化されていますので、他の記事もぜひ読んでみてください。
[*3]新型コロナが浮き彫りにした現実はたくさんあるが、そのうちのひとつは、この世にはテレワークが可能な職業のほうがはるかに少ないということです。そしてまた、まさにテレワークができない種類の職業に就いている方々のおかげで多くの生活が成り立っている。
[*4]個人の感想です。コミュニケーションにおいて、正しい日本語は必須ではない。基本的には通じれば良いが、誤解やすれ違いによるさらなるコミュニケーションコストが発生する可能性は高くなる。
[*5]わたしが不得意なだけで、みんなチャットなどによる会話に長けているのかもしれない。コミュニケーション能力(などという極めて曖昧な定義で示される能力)が高いとされる人物であれば、このような諸要素がなくとも足りるのかもしれない。また、諸要素を補完できるようなコミュニケーション能力がこれからのビジネスに必須になってくるのかもしれない。
[*6]もちろん、斎藤先生も言っているように、オンラインのほうがベターなこともたくさんある。選択肢が増えることは、いままで救えなかった誰かを救える可能性が増えることである。
[*7]よく知られているように、一般に社会性と呼ばれているものの基礎は「毎日同じ時刻に同じ場所に行くこと」である。まずこれができないとお話にならないとさえ言われる。
[*8]逆に、「そこにいない」ことは大きくマイナスに評価される場合も多く、何をもってしてもそれを埋めることはできない。例えば二次会とか。
[*9]言い換えれば、わたしたちは「直接会う以上」のことはできない。そこが肉体を持つものどうしの限界である。
[*10]とはいえ、このような意見はあまりみかけない。特に若い人たちはもっとリモートが加速するだろう、リモートが良いと言っている印象。
[*11]だからこそ、わたしたちは言葉に対してもっと繊細になるべきではないかと思っている。コロナ禍における独特の単語・日本語の使われ方について、とても奇妙で面白い現象が起こっているのではないかと思っているのでちゃんと考えたいが難しい。


 



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