IKUO ichimori 一森 育郎


大阪府堺市に生まれる。
東京にてインテリアデザイン、立体彫刻を専攻。

1968年渡仏。

フランス中部の町ツールの語学学校に入学。

そのころのパリは、五月革命で、
ゼネストへ発展した時期には、パリに缶詰状態になったことがある。

誘われてソルボンヌの集会にでたが、カルチェラタンでは車が燃え、
警官と学生が衝突していた。 ここで捕まったら、国外追放だと聞かされ必死で逃げた。

夏にはニースへバカンスに出かける余裕が生まれるほど、フランスの生活に慣れていった。

その年の秋、インテリアデザインを学ぶためパリにもどる。

スタージュ(無給の研究生)として仕事をしながら、
日本で作った作品を持ち歩く日々が続く。

転機がやってきた、ボザール国立芸術大学の教授、
ジルベール・パワイラ氏の紹介でマダム・ローラ・プルサックに出会う。

1970~1975年
ローラ・プルサック(オートクチュール)のアクセサリーを製作。

70年代ローラ・プルサックはオートクチュール界の大御所であった。
パリで1番おしゃれな通り、 フォーブル・サントノーレにブティックを持ち洋服とアクセサリーを扱っていた。
それはどれもダイナミックで個性の強い大胆なアクセサリーをおいていた。

ローラ・プルサックはとてもアヴァンギャルドで、IKUOの作品を一目見て気に入ってくれた。

好きなものを自由に、勝手につくってくるようにと、彼女はトルコ石やアメジストなどの石を渡した。
パリのどこで銀が買えるのかもわからない手探りの状態で作品を作り店へ持っていった。

なにも言わずに買い上げ、また別の石を受け取るという繰り返しになっていった。

しかし、プルサックとの仕事は彼女が病気で亡くなったため、突然終わってしまう。

この時期、旅行会社からプロのガイドとして契約をしたいと誘いがあったが、

"何のためにパリに来たのか。 これで、好きなパリに住むことができたとしても、違う" と気づいた。

これがきっかけで本来自分がやりたかったことに全力投球で向かうことが出来た。

1977年
パリ、グラン・ゾーギュスタン通りにIKUOギャラリーショップをオープン。

フランス工芸家協会唯一の日本人正会員になる。

宝飾、アクセサリー部門で最大の国際見本市、ビジョルカに参加。

"根無し草のように自分を感じたことがあって、
パリにいてこれをやっているんだと納得できる証がほしかったんです。
フリーでやっているのは不安でした。
自分の店を持ちたいという気持ちが強かったんです。
そうすれば、これをやっているという納得が自分にできるわけですから "

店を開くにあたり、難関の審査を受けてフランス工芸家協会の会員になった。
会員として認められた時、自分が職人としてフランスに登録されたことを強く意識した。
これは、自分の大きな自信につながっていったと言う。

現在もフランス工芸家協会の日本人正会員は、彼一人だけである。

同じ年、"ビジョルカ"に参加。業界の注目を浴びる。
ロンドン、ミラノで開かれる見本市に出品。
パリから世界へと広がっていった。

並行してファッションショーの仕事もするようになり、徹夜で作品を仕上げる日々が続く。

好きなものを作る喜びは大きく刺激的で華やかな時期でもあった。

1978年
インターナショナル・パールデザインコンテストにて受賞。

1988年
権威ある宝飾コンテスト、ワールド・ゴールド・カウンシルコンテストでグランプリ受賞。

1988~1989年
有名メゾンのプレタ、オートクチュールなどのアクセサリーを製作、コレクションに参加。

このことで、"IKUO"の名前がいっきに知れわたり、
ジバンシー、ラクロワ、グレ、ハナエ・モリ、カールラガーフェルド、
バレンシアガ、など、一流メゾンのオートクチュール、プレタポルテでの活躍が待っていた。

1997年
東京原宿にショップをオープン。

現在、日本各地で"IKUO展"開催。

年2回のコレクションの発表で、
"IKUO"のファンは確実に増えつづけている。

これは、彼の作品の魅力もさることながら、彼自身がとても
魅力的だから と言うファンは多い。

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