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となりの敷地の神白さん:第九話【ジャスミン】

となりの敷地の神白さん:第一話【天ぷら①】

前話⇒となりの敷地の神白さん:第八話【人形焼き】


寒い冬が過ぎ、そろそろ桜が咲き始める季節になった。

休日の昼間。自転車を漕ぎながら、あたたかい日差しを感じる。

花粉症の身としては複雑な気分だが、寒いのは苦手なので、嬉しいと言えば嬉しい。


アパートに到着し、自転車のカゴから、特売で購入した野菜が入ったレジ袋を取り出す。
ずしりと重さを感じ、買いすぎだかも知れないと若干の後悔に苛まれた。

「笹森さん、おかえり」

すると、後ろから声をかけられた。
振り返ると、神白ともえさんだった。

「あ。神白さん、こんにちは」

今日のともえさんは、白いブラウスに、若草色のカーディガンを羽織っている。
色合いが春先で、爽やかな印象だ。

「お買い物?」
「はい。スーパーの特売日なので、ちょっと行って来ました」
「そうだったの。私も午前中病院でね。ちょっとお出かけして来たのよ」

「病院」と聞いて、少しドキリとする。
高齢になると病院に通うことも多くなるものだが、何かあったのだろうか。

「病院?どこか具合が悪いんですか?」
「あ、違うのよ。ただの通院。年を取るとどうしてもねえ」
「そうでしたか…」

上品に笑うともえさんを見て、ホッと胸を撫でおろす。
大事では無いなら、とりあえず良かった。

安心したとたん、重いスーパーの袋を持ったままだったことを思い出し、持ち直そうと袋を見ると、買ってきた卵が目に入る。
その卵を見て、いつぞやの、ゆで卵の乗ったカレーライスを思い出す。

そういえば、ともえさんがカレーライスが嫌いな理由を、まだ聞いていなかった。

「そういえば……神白さん、カレーが嫌いなんですか?」
「カレー?」
「前に神白さんからカレーを頂いた時に、そんな話しを聞いて」
「ああ、そんな時もあったねえ……。そう、私、カレーは食べないのよ」

言いながら、ともえさんの眉が八の字を描く。
これはおそらく、相当嫌いなのでは無いだろうか。そう思える表情である。

「なんかねえ、あの香辛料の感じが合わなくて」
「へえ、なるほど……。確かに、独特と言えば独特かもしれませんね」

言われてみれば、遠くからでもカレーだと分かるあの香りは、特徴的かも知れない。
好きな人だと気付かない視点であろう。

「笹森さんは、カレーは大丈夫?」
「私は、はい。カレー大好きなので」
「そう、なら良かった。駄目なものを渡されたときは、遠慮無く言って頂戴ね」

ともえさんが、そう言って穏やかに微笑んだ。
実際にその場になって言えるかどうかは別として、事前にこういう言葉を掛けてくれるのは、神白夫妻の良いところだと感じる。

「基本的に好き嫌いは無いので、大丈夫だとは思いますが……。はい、分かりました。そのときは、すみません」
「謝る必要は無いのよ。あの人も、どうせなら美味しく食べて貰いたいと思ってるだろうから」
「いや、もう……本当、有り難いです」

「頭が下がる思い」というのは、こういうときに使う言葉なのだろう。
改めて、こういう歳の取り方をしたいと思う。

そのとき、勝手口の方から物音がすると、サンダルを擦る音が、のんびりと近付いて来る。
おそらく、神白一(はじめ)さんだろう。
実は息子さんも同居しているらしいのだが、私は今のところ、一度も姿を見たことがない。
いったい、どんな人なのだろう。そうは思いつつ、姿を想像するところまではしていない。

「笹森さん、こんにちは」

すると、予想通りに神白一(はじめ)さんが、ひょっこりと顔を覗かせる。

「お花を摘んできたの?」

ともえさんのその言葉で、神白さんの手には、花が数本握られていることに気付く。
黄色い花びらが印象的だ。

「うん、そうそう。はい、笹森さんに」
「わ、可愛い花ですね」

ともえさんに頷いて見せてから、神白さんが私へと花を手渡す。
受け取ると、レモンイエローのようなハッキリとした黄色の花びらが、1枚で繋がっている。可愛らしい花だが、いったい何という花だろう。
顔を近付けると、どこかで嗅いだことのある香りがした。

「ジャスミンだよ」
「あ……!これがジャスミンなんですね」

花に関心が無いので、今までジャスミンがどんな花なのか知らなかった。
何も考えずに出て来た言葉に、妙に恥ずかしくなって神白さんを見ると、穏やかに笑っていた。

「そう、僕も最近知ったんだよ」

どうも、恥ずかしいと思っているのは私だけのようだ。
神白さんの言葉に、安心する。

「あたたかくなって来たし、そろそろ、サイクリングに良い季節になるね」

その台詞を聞いて、思い出す。
そうだ。そういえば、そんな話しをしていた。
神白さんと私の、サイクリング計画だ。

「そうですね。物産展もこの時期ですか?」
「うん、いつも通りならそろそろかな。チラシが入って来たら、お知らせするよ」
「ありがとうございます。お知らせ、楽しみにして待ってますね」

以前のサイクリングのお誘いが社交辞令では無いと判明し、心なしかワクワクしている自分がいる。

「うんうん、そのときは、よろしくね」
「はい、こちらこそ! では、また」

そう言って神白夫妻と別れ、私はアパートに帰宅した。
あとはいつも通りの時期に、物産展が開催されることを願うばかりだ。


⇒次回へ続く…【8/1日曜日13時更新予定!】

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